地名が語る関西の歴史

日 時 平成23年7月21日(木)
場 所 池田泉州銀行講堂
講 師 田辺眞人氏(園田学園女子大学名誉教授)
 関西・関東の「関」とは元々関所のことで、最初は古代645年
(乙巳の変:中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺)の翌年
に出された「改新詔」において北陸道に愛発の関、東山道に不
破の関、そして東海道に鈴鹿の関を置くという方針が示されま
した。
 残念ながら各々がいつ頃設置されたかは不明ですが、672年の壬申の乱(天智天皇の長男・大友皇子と同弟の大海人皇子との争い)では、大海人皇子がいち早くこれらの関を押さえたことが勝利の一因とも言われていますし、789年に「天下三関を廃す。」との記録もありますので、これらの関所が設けられたことは確かなようです。
 したがって古代ではこの関を境として関西・関東に分けられていたようで、今の中国・九州地域も関西に入る広域な呼び名でありました。
 しかし中世〜近世になって、逢坂の関の西方である畿内、つまり上方を関西と呼び、碓氷・足柄・箱根の峠の東方である坂東を関東と呼ぶようになりました。
 そして近代におきましては、関東平野一円を関東とし、関西は近畿地方と位置づけられるに到りました。
 すなわち、当初は広域の呼び名であったものが、だんだん狭義の呼び名に変遷してきたことになります。