関が原の人々 「徳川 秀忠」

平成24年2月7日(火) 午後の部で実施。
場所:明石市男女共同参画センター
主催:(財) 兵庫県芸術文化協会
講師:茨木一成氏 (日本歴史学会会員)
 関が原の戦いで勝利した家康は、慶長8年2月12日征夷大将軍
に就き、幕府を開きます。また、徳川氏による将軍職世襲を確実
にするため、秀忠を次期将軍候補にするよう朝廷に奏上し慶長
8年4月16日に任命されます。
これにより徳川家による将軍職世襲もほぼ内定しました。
徳川秀忠は家康の三男で大阪夏・冬の陣に出陣。家康の遺訓を守って諸法度の制定、キリシタン禁止などの幕府創生期の基礎を固めました。自身は二代将軍で三代への中継ぎとして、着実に幕府の基礎を作り、「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」や「大奥のシステム」も作りました。
 また、家康の家臣は外様大名が殆んどで、三代目に政権を渡す前に改易を行い、41名の断行を行いました。
主なものは、元和5年広島城修築を理由に福島正則や、年寄本多正純を改易に処し、幕府側には、土井利勝を信認して幕藩制の確立に力をそそぎました。
 そして、秀忠は将軍職を家光に譲った後も、大御所として江戸城西の丸に居を置き、幕政を握りました。
 しかし、政権維持に永久はありません。
徳川政権が約300年も続いたのは奇跡とも言えます。