田畑から住宅地へ

日 時 平成25年8月6日(火)
場 所 鳴尾公民館
主 催 公民館活動推進員
 今は住宅地の代名詞にもなっている阪神間は、かつては一面の
農地でした。それが明治末期の鉄道の開通と共に少しずつ住宅
地化していきました。
 今回は高校野球のメッカである甲子園から鳴尾地区にかけての
歴史的経過をお伺いすることができました。
 明治18年の周辺地図によりますと、この辺は小さな集落はあるもののそのほとんどが農地であったことが確認できます。
 明治38年には阪神電車が開通いたしますが、すぐに住宅化したわけではありません。
 明治末期〜大正時代〜昭和初期は正に産業革命の時代で、大都市に人口が集中し始め、農村が衰退していきました。
 そこで働くのは都会、住むのは環境の良い郊外という考えが定着してきて、阪神間は鉄道会社を中心に住宅地の開発が推し進められていきます。
 因みに開発された地域は、明治では苦楽園・宝塚・鳴尾等、大正では芦屋・甲子園等、そして昭和に入り武庫之荘・六麓荘等々です。
 甲子園球場は大正13年に、武庫川の改修のため廃止された申川と枝川の三角州に建設されました。