壬申の乱とその経緯

日 時 平成26年2月18日(火)
場 所 宝塚東公民館
主 催 宝塚文化財ガイドソサエティ
 古代最大の内戦と言われる「壬申の乱」についてのお話しです。
 これは天智天皇(中大兄皇子)の弟・大海人皇子(後の天武天
皇)と天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇と追号)の戦いで、
官軍である大友皇子が敗戦した数少ない内乱でした。(叔父&甥)
 ここに至るまでの経緯ですが、645年に乙巳の変(大化改新)が
起こり、中大兄皇子と中臣鎌足が皇極天皇の前で蘇我入鹿を暗殺(蘇我蝦夷は自害)しますが、この時は大海人皇子はカヤの外でした。
 そして663年の白村江の戦い(日本・百済&唐・新羅)で大敗をした中大兄皇子は天智天皇となって都を飛鳥から大津へ遷都し、その時点では大海人皇子はまだ皇太子扱い(日本書紀)でした。
 しかしまもなく天智天皇は自身の子・大友皇子を太政大臣につけて自分の後継の意志を見せたため、大海人皇子は身の危険を感じて吉野へ隠遁いたします。
 やがて天智天皇が崩御しますと大友皇子と大海人皇子との間で後継者争いが起こり内乱へ突入しますが、結果 大海人皇子が大勝して都も飛鳥へ戻し、自らは天武天皇として即位いたしました。
 天武天皇は律令国家を確立し、また自身を正当化する意味もあって「日本書紀」の編纂を指示しましたが、完成したのは720年で本人が亡くなった後のことでした。(写真は天武天皇:ネット)