黒田孝高ゆかりの人々「黒田孝高」

平成26年4月8日(火)午後の部
場所 明石市男女共同参画センター
主催 (財)兵庫県芸術文化協会
講師 茨木一成氏 日本歴史学会会員
 黒田孝高氏は、戦国時代から江戸初期にかけての
部将・大名、諱(実名)始めは孝降、のち孝高と言ったが
一般的には黒田官兵衛、あるいは出家後の号をとった
黒田如水として知られています。
 またクリスチャンでも知られ洗礼名は「シメオン」と言うそうです。
 その後中国計略中の羽柴秀吉に出会い、羽柴秀吉に従います。
 九州平定後、豊前6郡を与えられ中津城に入り、その後家督を長政に譲った後も軍師として活躍。
 関ケ原の戦いでは加藤清正らと九州の西軍を攻撃。
 また播磨国(兵庫県西南部の旧国名)で、国府は飾磨郡、元姫路市に比定、早くから製塩で知られ、また魚住泊など多くの港を設置した。
 慶長9年3月20日(1604年4月10日)、京都伏見藩邸にて死去59歳。
 遺言では、自分の遺骸は博多の神父の所に持ち運び、キリシタン墓地に隣接のやや高い所に埋葬するように命じました。
その墓穴は人が200人も入るほどの大きなもので、孝高以外では行えません。