黒田 孝高ゆかりの人々 「荒木 村重」

平成26年6月10日 (火)午後の部
場所 明石市男女共同参画センター
茨木 一成氏 日本歴史学会会員
 荒木 村重氏は、戦国時代から安土桃山時代にかけての
武将・大名。 利休十哲の一人である。 幼名を十二朗、
後に弥介。 荒木氏は波多野氏の一族とされ、先祖は藤原秀郷
である。 池田・織田家臣時代、天文4年(1535年)の家臣・
荒木信濃守義村の嫡男として池田(大阪府池田市)に生まれる。 
最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となる。 しかし、三好三人衆の調略に乗り池田知正と共に三好家に寝返り、知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握する。 
 天正6年7月7日(1578年) 荒木村重、滝川一益ら神吉城兵の夜襲を受け死傷者を出します。 16日荒木村重の調略により、神吉藤太夫は神吉城主頼定の首を持参する。 
 10月13日朝、荒木村重主催の茶会、客は津田宗及びもう一人。 15日秀吉、平井山にて観月の宴を行う茶師は津田衆宗及び一人。 しかし、11月7日家康のもとにも荒木村重村重逆心説が伝わる。 24日足利嘉昭、吉川元春に荒木村重の味方を申し出る。
 またその中心の城は伊丹城(有岡城)であり、戦闘に耐え得る機能を持っていました。