備中高松城の水攻め

日 時 平成26年9月8日(月)
場 所 兵庫県民会館
主 催 兵庫県芸術文化協会
 織田信長から中国・毛利攻めを命じられた羽柴秀吉は黒田
官兵衛の案内で播磨に入り、備中高松城攻めに着手します。
 城主は清水宗治(写真)で、秀吉は当初官兵衛らによる調略を
行いますが、宗治はこれを断ったため城を二重三重に包囲して
攻め落とそうとしました。
 しかし城の周囲は沼田であり、力攻めは困難とみて水攻めを採用するすることに決します。
 そのため足守川の流れをせき止める必要があり、堤(高さ:4間・7.28m、長さ:26町・2840m、上の幅:6間・10.92m、下の幅:12間・21.84m)をなんと12日間(4/14〜4/25)でつくりました。
 因みに、工費は米63500石、銭635040貫文、土俵635万個もかかったそうです。
 (現在なら、ゼネコンの試算によれば120億円はかかる由です。)
 毛利も援軍を派遣しましたが、秀吉の守備が厳重で救援はうまくいきませんでした。
 しかし、たまたま本能寺の変(6月2日)の報に接した秀吉は、安国寺恵瓊を通じて急転直下毛利方と和解をし、中国大返しを敢行いたします。
 この時宗治は46才で、兄の入道月清と隆景からの検使・末近信賀とともに自刃し、城中の家臣を救ったと言われています。