中世・戦国時代の宝塚

日 時 平成26年9月30日(火)
場 所 フレミラ宝塚
主 催 いきいき学舎
 宝塚には結構昔から人が住んでいた由にて、延喜式(平安時代に
編纂)にはすでに売布神社や伊和志津神社の名が見えます。
 古事記や日本書紀が書かれた7〜8世紀頃には国も倭から日本
となり、律令制度も徐々に確立されます。
 また仏教も積極的に展開され、これと並行して時代とともに貨幣
経済も進展していったようで、西谷 珠光山・宝山寺の境内から古銭(永楽通宝)が19万枚も出土したことでも証明されるのだそうです。
 さて、戦国時代に入りますと、尾張の織田信長が天下布武を掲げて天下統一を果たすために入京してきます。
 しかし、この頃は武士と同じくらい力を持っていたのが真宗(一向宗)で、その代表が石山御坊(現大阪城付近)で、信長と対峙いたします。
 そのさなかに起こったのが信長に対する荒木村重の乱(1578年)で、村重の味方には高山右近(高槻)や中川清秀(茨木)がおり、宝塚にも三蔵山城に佐曽利筑前をおいて応戦しましたが失敗に終わります。
 なお、この時に地元の中山寺が焼かれ、さらに米谷・安倉・川面・安湯村等の各村が全村焼失したとのことでした。