多田源氏のゆくえ

日 時 平成26年10月28日(火)
場 所 宝塚男女共同参画センター
主 催 からあい企画
 清和源氏の主流である多田源氏の満仲とその子孫行綱について
のお話しです。
 まず満仲ですが、彼は969年の安和の変を密告したことにより、
正五位下に昇進するとともに藤原摂関家に近づき、多田院を創建
いたします。
 また晩年には花山天皇の出家に際して摂関家の走狗として活躍し、85才で死去いたします。
 その後代を経るにしたがって多田源氏は没落の一途をたどり、行綱の代には源平の合戦が起こります。
 当初 行綱は木曽義仲に味方するも、形勢の悪化によりいったん多田に帰り、その後義経に味方して一ノ谷の合戦に参加いたします。
 しかし、頼朝と義経が不仲になったことからその武勲は認められず、ついに頼朝によって多田庄を没収されてしまいます。
 その後の行綱は歴史的には行方不明ということですが、ひとつの伝承として九州の天草に渡り、地名の「大道」を名乗って明治維新まで土地の有力庄屋として生き残ったとする説もお伺いしました。
 また、行綱の三男(定綱)・四男(基綱)は天草から多田に帰り、鎌倉幕府の御家人になったとも伝えられている由でした。