松陰の死を乗り越えて

日 時 平成26年11月20日(木)
場 所 鳴尾公民館
主 催 鳴尾公民館活動推進員会
 来年の大河ドラマ「花燃ゆ」の2回目のレクチャーがありました。
 安政の大獄で再び藩によって投獄された吉田松陰に1859年に
江戸への護送命令が出ます。
 そして評定により死罪となってしまいます。(享年30才)
 松下村塾の塾生は悪くても遠島だと思っていましたので、これに
憤慨し、弟子の久坂玄瑞(松陰の末妹・文の夫)達は松陰の意志を引き継ぐことを固く心に誓います。
 この頃の長州藩は、積極的に世界と貿易をして国力を養成し、諸外国と対抗していくとする「大攘夷」が藩論でしたが、桜田門外の変等を経て、尊皇攘夷へと変わっていきました。
 そして1863年に下関において攘夷決行(外国船砲撃)しますが、幕府や諸藩は傍観を決め込み、長州藩は苦境に陥ったため、高杉晋作は正規軍とは別に新たに奇兵隊を結成いたします。
 また長州藩は、会津・薩摩藩等の公武合体派によって京から追放されてしまいます。
 そこで長州藩は池田屋事件等を経て、2千人を出兵(デモストレーションとして)させますが入京は許されず、また入京許可の嘆願書も受け入れられず、蛤御門(写真)の変に突入いたします。
 この中に久坂も参戦していましたが多勢に無勢で敗北し、結局自害してしまいます。(享年25才)
 国元では高杉は下関を砲撃してきた外国との交渉を引き受け、見事に難局を乗り切りました。(つづく)