日 時 平成29年9月14日(木)13時30分〜15時
我が国最大の古墳と言えば堺市にある大山古墳で、宮内庁は
これを仁徳天皇陵と比定しており、4世紀末から5世紀の天皇
(応神〜清寧)は大和国から河内・和泉国へ墓を造りました。
それは何を意味しているのでしょうか。
文献や考古学からこれらを考えるというセミナーでした。
仁徳天皇の父・応神天皇は、記紀によれば仲哀天皇と神宮皇后
の子とされていますが、仲哀天皇は今では実在が不確かなヤマト
タケルの息子であり、したがって応神天皇の出自に不明瞭さがあることから、別系統の勢力ではとする考えもあります。(河内政権の誕生?)
この頃の東アジアの情勢は、中国では晋王朝が亡び南北朝時代が始まろうとしており、朝鮮半島では高句麗の広開土王が南下政策を推進して倭国も派兵しています。(広開土王碑文参照;写真)
そして倭は天皇が中国・南朝に朝貢(倭の五王のこと)しており、宋書によれば五王とは「賛・珍・済・興・武」とされていますが、ここには仁徳天皇は含まれず、息子の履中天皇以下ではないかとのことです。
なお仁徳天皇は聖君と言われていますが、これは人家に煙が見えないので3年間課税を停止したとする故事によるものですが、これはどうも後世の作為のようです。
確かに5世紀には前方後円墳が巨大化して、場所も河内・和泉に集中していますが、宮はやはり大和にあり、一概に「河内政権」「河内王朝」という言い方にも?マークがつくと言えそうです。