日 時 平成30年9月21日(金)13時30分〜15時
後醍醐天皇は鎌倉幕府の倒幕を計画するも、これが発覚して
隠岐に配流されます。(1332年)
ただ翌年(1333年)には新田義貞が鎌倉を攻略して幕府が滅亡
すると後醍醐天皇も隠岐を脱出いたします。
そして建武の親政が始まりますが、彼は倒幕に貢献した武士
よりも公家を優遇するような政治を行いました。
結局 不満をいだく武士を集めた足利尊氏が室町幕府を開き、
形成が悪くなった後醍醐天皇は吉野(南朝)へ逃れざるを得なくなります。(南北朝分裂)
彼は北闕の夢(京都へ帰ること)を抱き、そのために自分の皇子(18人)を手足のごとく使います。
たとえば、①尊良親王:倒幕の旗頭として北陸路を行軍するも、幕府軍に攻撃され戦死しました。
②世良親王:将来を嘱望されるも、20歳頃に病没いたしました。
③護良親王:父のために懸命に働くも、見捨てられて殺害された悲劇の英雄です。
④宗良親王:生涯のほとんどを戦の流れに身を置くも、晩年は歌人として過ごしました。
⑤懐良親王:九州の統治を任され征西将軍となるも、福岡で死去いたします。
⑥恒良・成良親王:越前へ行軍を命じられるも捉えられ、京都で毒殺(牢死)されました。
⑦義良親王:後醍醐天皇の後継として南朝の天皇(後村上天皇)に即位しました。
・・・等ですが、再び京都に帰ることはなく、52才で崩御いたしました。