その時、重臣たちは・・・。

日 時 2021年1月20日(日)11時〜12時30分
 天正10年(1582年)6月2日に起こった本能寺の変(明智光秀
が主君・織田信長に謀反)の時に織田信長の重臣たちの動向が
どのようであったか・・・のお話しがありました。
●柴田勝家⇒上杉景勝の与力・山本寺孝長たちが籠城していた
 魚津城を攻略中であった。
 これを落城させ、さらに越後へ向かおうとしていた時に信長の死
 が伝えられ(4日又は5日)、京へ戻り始めましたが上杉軍に追撃
 され、長浜に着いたのが18日でした。
●滝川一益⇒本拠地である厩橋(群馬県前橋)にて越後の上杉や関東の北条を攻略準備中、
 知らせを受けたがなかなか戻ることが出来ず、清州城に着いたのが20日過ぎでした。
●森 長可⇒柴田勝家の援軍として信濃の北部にいました。
 知らせを受けて戻るも、途中敵対する土豪らと戦を繰り広げて手間取りました。
●河尻秀隆⇒武田勝頼攻めに功績があって甲斐に滞在していました。
 知らせにより京へ戻りかけるも、土豪たちに討たれてしまいます。
●丹羽長秀⇒神戸信孝(信長の三男)の補佐役として、四国の長宗我部元親を攻めるため、堺に滞在中、
 知らせを聞いて大坂城にて光秀の内通者(?)織田信澄を討ちとりました。
●羽柴秀吉⇒備中松山城攻めの3日に知らせを受け、急遽毛利と和解して帰途につきました。
 世に言う「中国大返し」で、7日に姫路着、11日に尼崎着で、13日に山崎で光秀軍を打ち破りました。