日 時 平成24年6月11日(月)
場 所 園田学園女子大学
講 師 桐藤 薫氏(園田学園女子大学講師)
紀元前1046年の「牧野の戦」において、武王は殷王朝の
紂王を破り、周王朝を樹立いたします。
殷王朝打倒の大義名分は、殷の紂王が暴政を行ったこと
とのことですが、これは勝者の創作に負うところが大きく、
後世発見された甲骨文字の解読から、紂王は忠実に祭祀を
行っていたことはほぼ間違いないようです。
周は元々殷の諸侯でしたから、王朝が変わっても大きく社会が変化したわけではありません。
まず王位は本家の長子が継ぐこと(諸侯も同じ)とし、政治上の君主であると同時に軍事上の総帥であるといたしました。
政治体制としましては、管制では「卿事寮(政務の管理)と大史寮(儀礼担当)」を置き、兵制では「六師(周人の軍)と八師(連合軍)」に編成しています。
また各地を血縁関係に基づいて家臣に土地と民を与え、その義務として領土防衛・出兵・貢租・祭祀参加等々を課しました。
文化としましては、やはり青銅器ということになり、形状等も殷の時代と急激な変化はありませんが、強いて特徴をあげれば「シンプルで、銘文が長い」ということでしょうか。