大輪田泊から兵庫津へ

日 時 平成24年7月11日(水)
場 所 芦屋公民館
講 師 田辺眞人氏(園田学園女子大学名誉教授)
 平 清盛が摂津国八部郡(神戸の生田川〜須磨間)を与えら
れると、大輪田泊の重要性を認識し、船の碇泊地とするために
私財を投じて工事を行った経緯について教えていただきました
 工事は難航しましたが、沈める石の一つ一つに経を書いて
埋め立て何とか完成させ、日宋貿易を加速させます。
 その後平家は壇ノ浦で滅亡し、鎌倉時代になるとここを兵庫津と改称いたします。
 「泊」も「津」も港という意ですが、前者は航路の中継点を表し、後者はターミナルを意味します。
 それまでは津と言えば浪速津(大阪)でしたが、淀川・寝屋川・大和川が運んでくる土砂により、浅瀬が出来て大型船の寄港地としては不向きとなり、やがて大輪田泊を兵庫津として使うようになっていきました。
 これが後世において県名にもなってくるわけです。
 「兵庫」とは武器庫のことで、おそらくは平家が本拠地としていた福原(神戸)に武器を保管する倉庫があり、その周辺が荘園であったことからこの名がついたのではという説があります。(兵庫上荘・兵庫中荘・兵庫下荘=兵庫三箇荘か?)
 その他、646年の改新の詔に「郡毎ニ兵庫ヲ造レ」(日本書紀)の記述があることからきたという説や、「武庫」がなまって(又は誤って)「兵庫」となったのではとする考えもあるようです。