日 時 平成24年8月8日(水)
場 所 芦屋公民館
講 師 田辺眞人氏(園田学園女子大学名誉教授)
太政大臣にまで登りつめた平清盛ですが、そのお墓となると
あまりはっきりせず、そのご説明を賜りました。
清盛は1180年6月に孫にあたる安徳天皇を要して、福原
(神戸)に遷都しますが、同年8月に源頼朝が関東で、9月には
信州で義仲が兵を挙げ、10月に富士川の合戦で平家軍が敗
れるにおよび、ついに平安京(京都)への帰還を余儀なくされます。
翌年清盛は熱病にかかり、2月に京都で死去いたします。
「平家物語」によれば、愛宕山で荼毘に付され、その遺骨を円実法師が摂津国・経が島に埋葬したとあり、近くに十三重の石塔(写真)があるため、かつてはこれが墓だと考えられていました。
しかしこの石塔は「摂津名所図会」によれば北条貞時が清盛の供養のため建てたと説明しています。
また鎌倉幕府の「東鑑」では播磨国山田の法華堂に納められたと記されておりますが、山田という地名は特定しづらく、他方 播磨国ではなく領国の摂津国であろうとの説もあり、そうすると今の神戸市北区の山田ということになります。
さらに山田ではなく、和田の誤りではないかと考える人も出てきて、そうなると正に「平家物語」にいう大輪田泊の経が島に戻ってしまいます。 本当にこの問題は神戸の歴史の謎なのです。