みれん歴史歩こう会の講座に参加して

「天下人秀吉のキーパーソン・豊臣秀長」
11月19日(水)10時〜宝塚市立男女共同参画センターにて
主催 みれん歴史歩こう会
みれん歴史歩こう会の女性の方々が秀長を調べ、そしてゆかりの名所・旧跡を訪ねられて上記の題名で講演をされました。
秀長は実務と人情豊かな人であり、秀吉の補佐役に徹して内政、交渉、調整能力を発揮して天下統一事業の一翼として貢献したこと等秀長の主な戦歴を下記の通り説明があった。
特に播磨・但馬侵攻に際しては竹田城を落城させ城代となり、優れた経済感覚で生野銀山の採掘に力を入れて以後の秀吉の財を作ったこと。
紀州・四国侵攻の副官及び大将として活躍し、100万石近い大領を支配する大和国の郡山城主となった。大和国は寺社勢力が強く其の勢力を削ぐ為に検地令や刀狩令を行い、灌漑に力を入れた。
奈良町の生活必需品の一切の商売を禁止して郡山城下で行うようにし、そして城下を商工別に区割りをした。大和の陶器・赤膚焼を開窯したりして平和裏のうちに大和国を治めて大納言を叙位する。
秀長の一族(兄弟姉妹・甥たち)とそしてその後の説明があり、弟姉妹は脆弱な豊臣家のために秀吉に重用され、特に甥達は体制の中に繰り込まれ短命であった。
そして秀長死後、秀吉に対して遠慮なく諫言する人が無く乱行が始まり豊臣一族の内部分裂が始まったことなど。
秀長ゆかりの名所・旧跡である竹田城跡・出石城・大和郡山城・石垣の地蔵・大納言塚・菩提寺の春岳院・大和郡山紺屋町の資料館に行かれた説明があった。
講演を聴いて、常に秀吉を立て決して弟の分を超えることはなくナンバー2として影で支え続けた人と思いながら、秀吉より長く生きていれば少なくとも朝鮮征伐、利休切腹、秀次抹殺、家康との関ケ原合戦もなく、その後の歴史がどのようになったか空想するところです。
最後に「みれん歴史歩こう会」主催で有料の「豊臣秀長ゆかりの大和郡山を歩く」が11月28日(金)午前九時半 集合 阪急梅田駅神戸線売店前の説明があった。