繊細だからこそ私たちの心

最近、つらいニュースも多く、押しつぶされそうになります。
ですが私たちは明日をむかえます。

でも本当につらいことは、人間関係の中にこそあるような気がします。

人間というのは、とても繊細な心の持ち主なのだなと強く思うことがよくあります。
細かいとかナイーブとか、いい意味とか良くない意味とか限ったことではなく、全てをひっくるめてとても繊細なのですね。

僕も以前に比べ、人と接することが多くなり、その繊細な心に触れることがあります。
知らずのうちに傷つけてしまったのだなと思うこともあります。

彼は彼女は、僕という人間とどう関わりたかった、関係を取りたかったのだろう、何を期待していたのだろう 後の祭ですが、一度繊細な心を傷つけてしまった代償は僕自身が払わないといけません。

繊細な心を持ち、傷つき、傷つけられて、でも又持ち直して、やり直して、そして成長して、その新しい自分を歩んでゆく。

少し青くさい言い方ですが、人間とはそういうことの繰り返しなのかなと考えたりします。

一足 止まってみよう 見えることがあるから 
どんな時でも 落着きとゆとりを
それがどんなに難しいこととわかっていても

いじめにしろ不登校、引きこもりという事実にしろ、何となくではなく、心は何かしら傷ついているのだと思います。
その心をケアするシステムがあれば良いのですが、無いと文句ばかり言うのではなく、もし仮にないのであれば、どうしてゆけば良いのか考えてゆくべきだとも思います。

優しい心の中での、良好な人間関係を経て、思いやれる人間に育つのではないでしょうか。
もちろん、優しさだけではなく、強さも必要だと思います。

小学校6年生の時に、同級生の男子数名で、ある女の子をからかったことがあります。
その女の子に深い深い傷をつけてしまったのはもちろんですが、その光景を見ていた別の女の子がいました。
僕が中学校に入り、大勢の女子生徒に嫌われだした時に、その別の女の子に仕返しをされました。
その女の子は、自分に対してではないが外見のことで女の子をからかっている僕という人間を絶対に許せなかったのだと思います。
繊細な心は傷つき、悩み、怒り、本当に深い傷を負って生活していたのだと思います。

いま振り返ると、中学時代の僕に対するいじめは、あくまで僕個人のケースですが、自分に原因があるのかなと考えています。

松尾