子どもの褒め方

これもよく聞かれる。
『「子どもは褒めて育てろ!」と言われるが、どう褒めていいかわからない。』と。

わかりやすく言い換えようと思う。
「子どもの存在を『喜んで』育てよう」と。

悪さが出来る元気があってよかった!
自分の主張が出来る子でよかった!
あるいは、
おとなしくしていられる子でよかった!
人の気持ちがわかる子でよかった!

それにプラス、
例えば、でも人に迷惑をかけないようにしようね!とか、
自分の気持ちも言ってもいいんだよ!とか。
それだけのこと。

褒めると聞くと、多くの人は、なにか、だれかと「比較」して、上であったら、早ければ、よければ、褒める事ができるけれども、そうでないので褒められないと思っている。間違いである。

ある学校の教研に参加させてもらった時、若い先生がこう質問された。
「うちのクラスの二人の男の子、A君はなんでもよくできる子でB君は褒めるところがない。でもA君を褒めたらB君がすねるので困りますどうしたらいいでしょうか?」と。

私は「先輩に聞けばいいことなのに」と思いながらこう答えた。

「Aくんは褒めないと動かない子ですか?」「いいえ」
「では少なくとも他の子の前で褒める必要はないですよね。褒めるなら他の人のいないところで褒めてもいいのではないですか?」

「それと、先生が褒めるところがないというB君はこういうことはないですか。例えば、昨日「あ」という字が書けなかった。今日は書けた、というような」
「それはあります」

「ではなぜそれを褒めないのですか?」と。

「昨日出来なかったことが今日はできた!頑張ったね!と褒めればいいのではないですか?」と。

その先生は「ああ!」と言われてメモを取られました。
一番驚いたのはその後です。
周囲におられたベテランと呼んでいい先生方も同じように「ああ!」と同時にメモを取られたのです。

他者との比較でしか自分の価値を見てもらえない子どもたち。
いじめも不登校も起こるはずだ、と思う出来事でした。

「這えば立て立てば歩めの親心」とは昔から言うことですが、それがその子の成長への期待ではなく、人、あるいは、何かの基準と比べての評価であってはなりません。
無意味です。有害です。

人との比較で評価されたりされなかったりするような間違った社会環境は人間をだめにします。
足を引っ張る、蹴落とすことで優位を保てるような社会のあり方は、決してその社会の成長をもたらしません。
お互いの欠点を補い合い、助け合ってこそ社会は発展するのです。
歴史がそれを証明しています。

生物は多様性こそが大切。
進化論もいまや過去のものと言っていい時代に日本は逆行しています。

少しの違いをことさらに咎めたて、自分の優位を保とうとしても長続きはしません。

お互いの多様性をどう生かして共に生きるか?を考えることが大切。

それと、現場で思うのは、子どもを褒めるにはまず、自分の価値に大人が気づくことからかもしれないと思います。
ここまで生きられたことへの感謝とか、頑張ってきた自分への評価とか。
自分を否定しがちな人は子どももちゃんと評価できないと感じています。
親も教師も、大人たちの多くが自己評価が低い。
変な自尊心?だけは強い???

まず自分を褒めて、子どもを褒める練習をしたらいいかもね。