まず「暴力とはなにか?」である。
誤解を怖れずに言えば「コミュニケーションツールの一つ」である。
言うまでもないことであるが「使ってはいけないコミュニケ-ションツール」である。

なぜ使ってはいけないか?
「使うことでコミュニケーションの断絶が起こることが明白である」からである。

暴力は「一方的な自分の意思の押し付け」なのである。

誰が人の意見を押し付けられたい人がいるであろうか。
明白である。

だから、通常暴力使うことは誰のメリットにもならないのである。

暴力と言ってもその表現方法は多様であって、自分を傷つけておこなうものさえある。
体力的に非力である場合こういう手段がとられることが多い。

誰かが肉体的暴力を使用しようとする場合、多くは相手より自分の力が強いという、少なくとも自分の確信があって始まると私は思うのだが…。

しかし、これが子どもによる家庭内暴力は、少し様相が違うと私は感じている。
相手に負けることを望んでいるとしか私には見えないのである。

自分の方が弱いと解っている、思っているから暴力を振るうとしか考えられないのである。

しかし実際は子どもの思ったようにはならない。
強いはずの親が簡単に負けたりするのである。
それにはそれで理由があるのだが…。

じつはそれで、子どもはよけい困るのである。
引っ込みがつかないのである。

ここからより酷い混乱が起こる。
近しい関係間では解決がつかなくなりやすい。
ここで適切な対処ができる第3者を得ることができるかどうか。
ある意味、運命の分かれ道である。

あるご相談で「テレビを3台も壊されました!!!」という親御さんがいらした。
「それはどういうことか解りますか?」とお聞きしたら「意味があるのですか?いままでいろいろなところでご相談してきたがそういうことを聞かれたのは初めてだ」と言われました。

テレビを壊さないまでも、テレビをつけられない、音楽さえ聴けない、というご相談もある。
同じ原因であろうと私には思われる。

そういう場合の「子どもの心の声」は「あたしの声を聞いて!私の方を見て!」ということであると私は思う。

なぜ私がそう思うか?

そういう親の方々に「もし子どもさんが話しかけられてきたら、テレビを消して身体を子どもの方に向けてください」とお願いし、例え「なんでもない」と言われても怒らずに繰り返しそうしてください」とお願いし、それができたら、子どもの問題行動がいつの間にかなくなってしまうことが繰り返し起こっているからです。

子どもが家庭内暴力にいたるまでには、実はそれまでいろいろな子どもからの働きかけがありながら、親のほうが一向に気が付かない、あるいは間違った対応をしてしまうことの繰り返しの結果であると私は考えています。

子どもと教師の場合も同じだと私は思っています。

子どもに期待されている、子どもが信じている、信じたい相手であれば、同じことがありえると思っています。
ぜひ、お考え頂きたいと思います。
 続く