いまいろいろな人の違いに「障害」という名前を付けることが流行しています。
人はひとりでに育つのではない以上、必ず何らかのサポートが必要です。
その内容、程度が一人ずつ違うのだと私は思います。
洋服と同じように既製品で間に合う人もいれば、私のように少し腕が短い、あるいは全身的にアンバランスで既製では少し、というような人間もいる。
その人、一人一人に何が必要か、もちろん全てがあつらえというわけにはいかないことはわかってはいますが…。
誰かがほかの人と何らかのかなりな違いがあるとして「違いがある!」とだけすることにはなんの意味もないということをぜひ肝に銘じてほしいと思います。
「違う」ということがあった場合、ではその違いを社会の中でどう「生かすか」ということを考えたいと思います。
学習能力に何らかの課題をもっている場合でも、私の狭い経験ではありますが、指導法を少し変えるだけで何の問題もなくなる場合も多いのです。
たとえば漢字が覚えられない子の場合、空間認知を訓練することで書けるようになる子もいます。
あるいは、漢字を分解し構成を耳から入れることで覚えることができて書けるようになる子もいます。
他のことで自信をつけたら、苦手なはずの算数ができるようになった子も。
スピードだけを問題にすれば「障害」と名前がつく子が多くいます。
が、スピードがそんなに大切でしょうか?
時と場合があると私は思います。
車のすべてがレースカーである必要があるんでしょうか?
私は違うと思います。
知的障害に関して、そういう障害を持っている人には何を教えてもわからないと思っていませんか?
私はそうは思っていません。
天才なら1回で覚えることが普通の人は5回で覚える、私などは10回か20回、それがもしかしたらある人は50回で覚えられたり100回かかるかもしれません。
もしそうなら、その時間をかけることが必要なのではないでしょうか?
その結果、税金を払うようになるか、税金からお金を出さないといけないか。その違いは大きいと私は思います。
もちろんそれぞれの人生の質の問題もあります。
日本の国が子どもにかける教育費が先進国の中でも断トツに少ないのをご存知でしょうか?
そのつけは子どもだけでなくすべての日本人にかかってきます。
先日知ったばかりですが、私がかかわってって認知能力強化プログラムをしている子は、5年の時にIQが65だったそうです。その1年半後にはIQ85になっていたのだそうです。
また今度テストを受けるそうですが、たぶんもっと上がっていると思います。
私は知らなかったのですがこのようなことはあまり考えられないといわれているそうです。
人の能力は決まっているものではなく、その学習方法さえ有効なら高まるものであると思います。
興味のある方はこちらをご覧ください。
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