新聞記事や心理や精神関係の本を読んでいると、本当にがっかりすることが多い。
不登校にかんしての認識がまったく歪んでいる。

不登校は「学校という建物に通っていない」ということだけである。

不登校の子がうんぬんと、まるで講釈師のように勝手な想像をたくましくし、それまでの育ちや親、本人の資質にのみこだわってのいろいろな判断のいかに間違っていることか。

当たり前であろう。
「学校へ行かないのはおかしなことで本人に何かおかしなところがあるからだ」という思い込みから始まっているのだから。

まあ、ご自分はそれなりに、学校という建物に通い、別におかしいと思うこともなく、酷い目にもさして会わず、「運」よく、楽しく、学校生活を「昔」に送ってきた方ばかりなのであろう。

そういう方には、学校の今と昔、子どもを取り巻く社会の今と昔をまず比較し、その上で物事を考えていただきたいと思う。

昔、水俣病が発見された時、もし広い視野と、事実と思い込みを区別する能力に優れた方々が発言権を持っていたら、今まで続く被害者の酷い状態はなかったことは明白であろう。

同じことを繰り返している日本においてまた、不登校という状態で警鐘を鳴らす多くの子どもたちと、警鐘を鳴らすことも出来ず心を病んでしまう多くの子どもたちは生まれ、そして社会に押し出されてゆく。
その結果が出てからでは遅いのだ。
もうすでに遅いといっていいと私は思っているが、しかし、気が付いた時点から頑張るしかない。
放置は「罪」である。

今現在、不登校をしていない子になぜ2〜4割のうつが発現するか。
それを考えていただきたいと思う。
不登校の子の数などは目じゃないほど多いのである。

ありえない。

他の子どもにかんするいろいろなデーター、自分や家族を愛すること、
未来を信じることなどに関し、日本の数値の異常さは群を抜いている。

反面、多いと思われている青少年犯罪の海外比較での少なさはなにを表しているか。是非大人は自分に問うべきであろう。

問題があるのは子どもか、私たち大人が作っている社会か。
明白であろう。

人として生きがいのある社会を私たちは作らなければならない。

そのために今何が出来るか。

私たちが持っている「権利」を正当に行使し、おかしなことには「NO!」ということ。
それしかない!