思い込ませ

私の思い込みかもしれないが、今、社会全体が「親」という存在に対して間違った認識を子どもに与えてはいないか?と思う。

親ならこうでなくては。
親だからこうしなくては。
親には何をしてもいい。
親は子どものためにはなんでもしなくては。
親なら子どものためにならなんでも出来る。
などなどなど。
「そんはずないじゃん!」と私は思う。

昔の親はそうだったか?
違います。
それどころではなかったけれど、今の子どもたちより私たちは幸せだったと私は思う。
自由があったしね。自然も、人も多くいたから・・・。
社会が今のような「金主主義」じゃなかった。

「親」を「教師」や「学校」に置き換えても同じかもしれない。
そうなったしまったのは何故か考える必要があるのではないか?と私は思う。

たとえばこんなことがある。
「早寝早起き朝ごはん」大変結構なことで別に反対はしない。
しかしである、子どもに朝ごはんを作らない?母親がいたとする。
子どもに「あんたの母親は・・・!」という必要があるのか?

たとえばシングルで、生活のために深夜、コンビニ弁当を作る工場にも働きに行って朝おきられないこともあるとしたら。

周囲が出来ること、しなくてはいけないことは、
「母親」を、朝ごはんも「作らない親」として冷たい目で見たり、
子どもに「あかんおかあちゃんや」ということではない。

小学生にもなれば「チン」(電子レンジの使用)の一つも出来るはず。
冷蔵庫から出して、あるいは半完成品などで自分で出来ることを教えたらいいのではないか?
「お母ちゃんも大変やから」「自分のことは自分で」と教え、「えらいなああんた!」でいいのではないかと私は思う。

いろいろな家庭がある。
その一つ一つを勝手なカテゴリーで分け、違う点だけを問題にし、改善要求をしてそれで済むのか?

親も子もみんな違うのである。
私たちがしなければならないことは「人の不完全を指弾」することではないと思う。

何らかの課題を持つそれぞれに対し「自分は何が出来るか」をまずは考えることではないか。

世の中は善意であふれていると私は思っている。
が、その善意をどういう方法で表すか?
は充分考えられるべきだと思う。

「出来るだけのことを出来るだけ」と私は言うのだが。
間違っているだろうか?