一言に「ひきこもり」といっても、自分の部屋から出ることもできずトイレにさえ行けないような人もいれば、家の中、誰もいない時なら、あるいは家族なら普通に、自分が必要な買い物、コンビニとか本屋とかには行くなど、いろいろな違いがあります。

よく、不登校になると「そのままにしておいたら引きこもりになってしまうから」などと言われたりしますが、それはまったくイコールではありません。

大学を出るまで、あるいは社会人を何年か経験したのち引きこもってしまう人も多くいて、不登校をすると引きこもりになるわけではまったくありません。

不登校から引きこもりになるにはそれなりの条件というべきものがあって、ある意味それは「引きこもらせ」というべき側面が強いと私は感じています。

人間が何らかの過渡期において引きこもることは昔からあることですし、遊民的若人がいたことも、昔話や落語などを見ても明白です。

「いつも明るく元気で!」など、到底人間の姿ではありませんよね。
インプットされたらいつでも同じというのは、機械であれば当然かもしれませんが、動物である人間にありうることではないのです。

私たちは自分の人間らしさを認めるとともに、誰にだってどんな時もあるのだということを忘れたくないものですね。

現代人の生きづらさの多くの部分が、ありえもしないそういう人間性を無視した、無理な決め付け、思い込み、思いこまされから来ているように私には思えます。

私の大好きな李政美(イ・ジョンミ)さんの歌に「ありのままの私」という曲があります。

http://leejeongmi.com/words.htm

私はこの曲をいつも車で聞いていて元気をもらっています。

先日、初めてこの曲をライブで聞かれた方が涙を流されて「生きてゆく勇気をもらった」といっておられました。
あることで生きてゆく気持ちを失いかけておられたのでしたが…。

私は引きこもっておられても、素敵な出会いや、あるいは何かのチャンスを求める気持ちは忘れないでいてほしいし、周囲は、引きこもり状態であっても、それをただ否定するのではなく、それを過渡期として認め、信じ、見守り、支えることができてほしいと思います。

でも家族だけではなかなか難しいのが現実。
そういう時、私達サポーターがいることを知ってくださって、ご相談いただきたいなあと思うのです。
身近にいていろいろな情報、スキルを持ち、必要な時にいつでも寄り添い、決してあきらめない存在があることを。