篭ってきましたぁ〜(^^) 後編

その中でも印象に残ったのは、

旅館・歌藤の若おかみさん。

たまたま、そこが経営し、そこの旅館の向かいにある

『陽ぼっこ』というステキな手づくりのログハウスで、

コーヒーを飲ませて頂き、いろいろお話を

お伺いさせて頂いたんですが、

その方や旦那さんなど、若い方々が連日連夜、

『吉野山を将来、どないしていくんか!?』

アツク議論されてるとのことです。

私も地元八尾で(若者同士ではないですが)、

そんなことしてますので、『どこも同じやねんな』と、

おもっきり共感いたしました(^^)。

聞くところによると、年々山全体の桜が

弱って来てるそうで、それをどうするか?とか、

桜以外の観光資源の開発とか、吉野ブランドの商品を作ったり、

お店の人に特化した案内地図を作るなどなど、

いろいろ考えてはるようです。

やっぱり、いろんな立場や考え方の方々と、

足ひっぱられん程度に仲良くやりながら、

新しくて良いものを取り入れつつも、基本は

いにしえの時代からある『吉野らしい』まちづくり、

そして人づくりをして、再建していって頂きたいなと

私は思います…応援していますっ(^O^)!

後、モリグチさんからおもしろい事実を教えて頂きました!

私が飲み会の時、モリグチさんに『この辺りの人って、

大阪からかなり離れてるのに、普段私が

しゃべってる言葉と同じで、ビックリしてます』と言いますと、

その理由を教えて下さりました。

理由1は、大淀町あたりは、近鉄電車一本で

大阪・阿部野橋に出れるので、大阪で働いてる方が多いからなんだそうです。

もう一つの理由なんですが…モリグチさんの出身の村・吉野郡川上村

方々は、ナント、私の町・八尾(河内地方)と

同じ河内弁をしゃべるんだそうです(驚)!!!

今から約700年前の、楠木正成や後醍醐天皇の時代、

河内地方にいたそれらの方々が、足利氏との権力闘争に敗れ、

吉野に逃げて来たそうで、それに合わせて、

その人たちに仕える人もたくさん来て、それで村に河内弁が拡がったそうです。

土地の名前も、カワカミ・カワチと、川にちなんだ名前で、

700年くらい前から、40キロくらい離れた場所が

『縁(えにし)の糸』で繋がってるという、

歴史的事実に奥い感動を覚えると同時に、

時代が流れても、それぞれの人が誰かのため・自分の為にと

一生懸命がんばって生きて来た『証(魂)』が、

村のあちらこちら、そしてそこで暮らす方々のDNAに感じられて、

些細なことでいちいち悩んだり、不足不満の心を持つ自分自身が、

もの凄く小さく感じられました。

そして、700年経った今、またこうして河内の人間である私が、

吉野の人たちと深い交流をしていることに、

時代を越えた『ご縁』を感じ、感謝の気持ちでいっぱいになりました。。。

ですので、吉野山にある後醍醐天皇のお墓などを参拝し

(もしかしたら、私のご先祖さまが、後醍醐天皇を

護衛してたかも知れませんし・笑)、飲食店等にあった

吉野関係の歴史本を読み、学ばせて頂いたり、

日ごろ考えない、自分が生まれる遥か昔の事に、

想いを馳せたり、本当にココロ、満たされる時間を過ごさせて頂きました。

ほんと、日ごろ考えないコトを考え、

日ごろ出会えない風景や人と会い、それを通して、

自身を客観視し、内観させて頂き、来年も、

心機一転、『すなお』に謙虚に、そして誠意を持って

また一からがんばるゾと誓いました。

…今回のお篭り旅で、お世話になった全ての皆様に、

『ありがとうございました』(^〇^)!!!