「大坂」 歴史探訪まちあるき 2

ここで、二枚目の昔の地図が登場です→

昔昔、その昔・・・きっと大和王朝の時代くらいまでは

右の地図のように、大坂のど真ん中・上町台地以外は

大坂は海・湾だったとのことです。

私が住んでいる八尾は、河内湾の海岸でした。

(つまり、八尾は昔から陸地で、海沿いでしたので、

魚介類を食べて生きてきたご先祖さまが大勢おられたということです)

ちなみに、東南海沖地震で大津波が発生した場合、

この昔海・湾だったところが、津波の被害に遭う可能性が高い

とのことでした。

何故なら、昔から海だったところは、土地(標高)が低いからなんです。

で、話戻しまして、この5メートルの防波堤は

やっぱり限りなく海抜ゼロメートルの土地なので、

これが必要不可欠で、江戸時代からこの手のものが

存在するんだそうです。

桜川駅から、大阪ドームに行く間に、

「大正橋」という大きな橋があるのですが、

そのたもとに右の碑があります。

1854年(安政元年)に大地震があり、

大津波が押し寄せ、船で逃げた人など

総勢5600人が亡くなったので、

船では逃げるな・・・などと、後世の人たちの為の碑として

建てられ、今でも幸町の方々が守り続けています。

ほんと、いつまで経っても、

今を生きる私たちを見守ってくださっている

「御霊(みたま)」が、こんなカタチであるんですね・・・。

西俣さんのガイドを、じーっと聞いている

黒いネコちゃん(笑)。

ここは、九条駅近くの

ちょっとした繁華街「九条新地」。

そして明治36年に大阪で初めて開通した

大阪市電創業の地という碑が建っていました。

てっきり、ここから都会(東)に向いて走っていたかと思いきや、

ここから海・港(西)に向いて走っていたとのことです(驚)!

理由を聞いてナットクしました。

明治時代〜戦後にかけて、

富国強兵・大東亜戦争と日本がかけめぐった時代、

大坂城公園・玉造あたりは、大阪最大の軍需工場地帯で、

そこで作った武器などが、

谷町7丁目→ナンバのアメ村あたり→ここ(九条新地)→桜島(港)へと

運ばれている、大きな道路(ルート)があったんだそうです。

(もちろん、このあたりも港町として、いろいろな工場があって

人・物がたくさんあったんだそうです)

だから、かつてこの九条は、大阪の中心地として

大繁栄を極めた時代があり、だから「松島新地(遊郭)」なども

出来たんだそうです。

<つづく>