1月22日(日)、久礼のお宿を出て、
22キロ先の、37番・岩本寺の宿坊まで歩きました。
「七子峠」という、一風変った名前の峠越えのため、
車一台くらいが通れる道を歩いてますと、前から軽トラックが来て
私の前で止まりました。
「もしよかったら、使って^^」
そう言ってくださったのは、地元の石油店販売店の
おじさま(60代後半くらい)。
ほんと、お接待してくださる方はみなさま
「ホトケサマのような顔」をされてはります。
幸福感あふれる・・・周りの人をも幸せにする顔です。
人格って、歳を重ねる程、顔(その人の「気」)に
出てきますよね。
私もあのような後光の差す顔を目指したいと思います。
いよいよ、峠声の山道になりました。
そこに地元の人たちが作って下さった
お遍路小屋がありました。
そこに・・・
「お遍路さん お疲れ様です。
この度、町に協力を求め、お遍路さんのトイレを設置しました。
このトイレは、お遍路さん皆さんの宝物です。
少ない人数で管理しており、行き届かない点もあるかと思いますが、
綺麗に使っていただき、ありがとうございます。
何かお気づきに点がありましたら、連絡をお願いします。
今後の道中もお気をつけて。 大坂上組壮年部 連絡先●●●」
・・・と書かれていました。
質素な小屋&トイレですが、とっても綺麗で
清清しい場所でした。
本当に素晴らしい人たちが、またまだ四国遍路道には
たくさんおられるんやなぁ・・・って
心の底から何だか感動いたしました。。。
一般の都会の人間の発想として、まず人の為に何か作ろうとしないし、
たとえ作ったとしても、誰かが夜中に、落書きしたり破損したりします。
一般の人たちは、日本の都会が日本を支えている・・・
そう思っているかと思います。
経済面(金銭面)ではそうかなとも思います。
だけど、メンタル的で根本的なところは、
田舎の人たちが支えているんだと思います。
だから、日本の田舎の過疎化が進み、活気がなくなると
日本全部が崩壊してしまいます。
日本の経済成長や日本人の幸福満足度を考えるのではれば、
都会の問題とこの田舎で起こっている問題・・・
バラバラに考えるのではなくて、
一緒に考え、一緒によくしていかなければなりません。
どうも日本人というものは、視野がそんなに広くなくて、
包括的・総合的に物事を見る目「直観力」が乏しいのかも知れませんね。
(特に都会の人)
たった一キロの山道でしたが、
さすが峠越えだけに、かなりキツかったです(>_<)☆
だけど峠越えした瞬間程、「達成感」を味わう瞬間はありません。
それに、山道はコンクリート道と違って足が痛みません。
ふんわりやわらかく、包んでくれる感じです。
しんどいですが、とても気持ちいいです。
全身の細胞が活性化して、目覚め、
そして、感性が研ぎ澄まされていくていく感じです。
七子峠の由来が、手描き&ベニヤ板に
書かれていました。
(きっと地元の歴史好きの方が書かれたのかと)
昔、この地域はある武将Aの支配地だったそうなんですが、
この地に別の武士Bがお城を作ったそうです。
その武将同士が争い、激戦の末、Bが負け、
自害したそうです。
その武士には、7人の子どもと妻がいて、
武士の自害後、妻が後を追って、7人の子どもと
谷に落ちて自害したとのことです。
その武士のお城が落城した次の年の春から、
一羽の鶴が、このあたりを7日間だけ飛ぶ時期が
7年間、あったそうです。
里の人たちは、その鶴を自害を決意した妻だと思い、
その妻のせめてもの慰めとして、
その峠を「七子峠」という名前に変えたそうです。
・・・こんな哀しい話を聞きますと、
こっちまでウルっ・・・と来ますが、
古今東西、いろんな人たちが、この地球上で
いろんなドラマを演じ続けて来て、今があるんやなーって
しばし悠久の歴史にひたっていました。。。
そして今日も、いろんな人たちの喜怒哀楽のドラマ(想い)を乗せて
歴史が作られていくんですよね^^
七子峠から岩本寺までは、
また国道56号線のお世話になりました。
今回の遍路旅で最初に見た数字は「38」でしたが、
「54」が書かれていました。
38の地点よりも16キロ進んでいるということになります。
相変らず、足摺岬(38番・金剛福寺がある場所)まで
95キロって書かれてある看板を見て・・・
「ああ、しんどー、めんどくさい、いややな〜」って
思ってしまっている、煩悩200%のよしこちゃんですが(笑)、
やっぱり、四国の素晴らしい風景、人、歴史に助けられながら
一歩一歩歩んでますと、
いつのまにか、1キロ・10キロ・100キロと歩いています。
人生の遍路も、結局のところ、
自分自身の力で、一歩一歩歩き続けるしか、
「本物のゴール」はないと、私はこのお遍路旅で
気づかせて頂きました。
<続きは後日に♪>