司馬遼太郎氏 『街道をゆく』6 〜沖縄・先島〜を読んで

アカン。。。オモロすぎ〜っ(%笑う女%)(%ハート%)

どんどん他のシリーズを買ってしまいそうな勢いです(笑)。

『街道をゆく』は、司馬遼太郎氏による短編紀行文集で、

1971年「週刊朝日」で連載が開始され、

1996年、2月に氏の急逝により、

43冊目の『濃尾参州記』で絶筆(未完)となったそうです。

『竜馬がゆく』などの歴史小説よりも

ずっと読みやすく親しみがあり、

現代版の“つれづれ旅日記”という感覚です。

司馬さん特有の鋭い観察力&歴史的眼差し、そして郷土愛が随所に見られ、

言葉では何とも表現しづらい感動があります。

司馬さんは1996年・・・今からもう16年前に亡くなられたのですが、

今でもあの八戸ノ里のご自宅で、参考図書(古えの方々)と楽しく対話をされながら

明日の日本を憂えつつも、と同時に希望を抱きながら、

執筆活動をされておられる・・・という感覚があります。

忘れないうちに、いくつか印象に残った内容を

ここでご紹介させて頂きます。

①司馬さんご自身の戦争体験

司馬さんが兵隊さんとしてある連隊に入っていて、

その連隊が「関東平野で、アメリカ軍と本土決戦になる」

というお上(大本営)の想定で、東京の背後地・栃木県に移ったそうです。

当時の関東平野の道は、二車線がせいいっぱいの

舗装されていない狭い道路でした。

もしも本当に関東平野で本土決戦になった場合、

東京に暮らす人たちが大八車を引いて

どっさりと周辺の田舎町・山へと逃げ込んで来ることは

間違いの無い事実。

となりますと、アメリカ軍と戦う日本の連隊は、

その狭い道で、逃げてくる一般大衆とすれ違う訳です。

司馬さんは大本営からやって来た司令官に・・・

「戦うために急行すべく驀進すべき道が

一般大衆で埋め尽くされていれば、どうするのか?」と

質問されたそうです。するとその司令官は、

ちょっと戸惑いつつも、押し殺した小さな声で・・・

「轢っ殺して行け」

と言ったんだそうです。

その時司馬さんは、驚き、おびえ、絶望感にかられ、

何もかもやめたくなったとのことです。

その後の自分自身の人生も変わってしまったそうです。

「軍隊は、日本国民を守るためにある」

ということは当時の日本の軍隊は、虚実だったと断言されています。

軍隊は、軍隊、そのものを守るものであり、

また、軍隊が守るものは、国家・キリスト教のためといった

より崇高な抽象化された存在であって、

具体的な国民ではないということです。

終戦当時、陸軍大使だった阿南惟畿(あなみこれちか)

という人物は、

終戦の時、降伏案に頑なに反対したそうです。

その理由は・・・

「日本陸軍は、まだ本格的に戦っていない」という。

あれほど、島々で万単位の玉砕・敗北が続き、

沖縄では県民ぐるみ全滅したという情報もあり、

広島・長崎では原爆によって、壊滅し、

わずかな生存者も、幽鬼のようになっているという事を

知りながら・・・にも関わらずである。

「国民の生命財産を守るために軍隊は存在する」のではなく、

「『自分たちが心行くまで戦う』のが軍隊の本質である」

これが阿南惟畿の思想と論理だったとのことです。

身の毛もよだつ思考形態で、憤りとか通り越して、

それが人間の叡智から湧いて来る『真理』であるのであれば、

私も何もかもやめたくなってしまいそうです。

だけど、もっと恐ろしいのは

この阿南惟畿の思考形態が、誠に残念ながら

現在の日本・世界の政治の世界や経済の世界でも

蔓延っている・・・という事実です。

「何の為にビジネスをするのか?」

「何の為に政治をするのか?」

そして・・・

「何の為に生きているのか?」

その本(もと)を完璧に外し、阿南惟畿化している“餓鬼”

(あえて「餓鬼」と書かせて頂きます)が

この日本にも蔓延っているのです。

私が昨年、国会議事堂に行った時に

ムンムン感じた吐き気がする『邪気』は、

この餓鬼共から出ていたものだということが分かりました。

今の日本世界のありとあらゆる不幸は全て

その餓鬼共かた発せられる『邪気』によって

もたらされているものなのです。

②『金属器』が普及したことによる幸と不幸

実際の歴史というものは、

「●年に、中国から日本に▲がもたらされた」と

歴史教科書に書かれているように

その年に一斉に日本全体にもたらされる・変わるというものではく、

じわーっと広がっていく・もしくはある地域では

もたらされなかった&普及しなかったというものなんだそうです。

本土と沖縄の民族・文化が本格的に分岐し始めたのは、

奈良時代だったそうです。

その時代に何かがあって、本土の人たちが南へ南へ

移動し始めたようです。

中国から日本に鉄『金属器』がもたらされたのは

弥生式前期(紀元前3〜2世紀)だったと言われています。

一気に本土で普及したのは、古墳が出来始めた時代・・・

大きな古墳を早く作るためには、

金属製の器具が圧倒的に効率がいいからです。

ところが沖縄は、その普及から外れていたそうです。

その唯一の理由は、「沖縄諸島では、砂鉄がとれなかった」とのことです。

普及しはじめたのは、14世紀初頭だったとのことです。

ですので、それまでは、

石で作った「へら」のようなもので、畑を耕していたものですから、

生産性が極めて低く、人口も増えません。

また、自然・所有欲も必要最小限で稀薄。

現に沖縄史を見ると、鉄器導入以前には大征服事業は皆無とのことです。

人類に金属器が普及した時に、社会が飛躍的に大型化し、

人の心も金属器によって、そそのかされた。

その普及によって、生産や所有への欲望が増大しただけでなく、

いっそ生産と人間を独り占めにしたいという大権力も成立し、

人の心もすさんでいった訳です。

ところが、この『街道をゆく』で、紹介されている

竹富島のような小さな島々では

他地域の鉄器によってもたらされた

歴史の華やかさと凄惨さとは別世界の

争いのない調和を持った極楽島のような日々が長〜く

続いたということです。

(もしかしたら、「わしらには、必要ないで〜!」って

拒んだ時期もあったかも知れませんね。 めっちゃ推測ですが・笑)

幸福の裏には、苦難が・・・苦難の裏には幸福があります。

何かを得ると、必ず何かを捨てなければなりません。

どちらを得たいかは、その時々の人たち・個人が決めることかと思います。

それが生活を創り、人生を創り、

そして壮大な歴史を創って行くんだと感じました。

③琉球王国(民族)の「受け入れる力」

鉄器がいよいよ沖縄にもやって来て、その素晴らしさを享受します。

そこから琉球王国が薩摩藩に侵略されるまでの約100年間、

世界史における大航海時代の波に

琉球王国もうまく乗ることが出来、大繁栄の時代を迎えました。

中国からは、砂鉄や鍋釜などを輸入し、日本で売る。

日本の素晴らしい刀剣を、中国に輸出する。

全てを受け入れ、その時流に乗る。。。

その柔軟さと言いますか、臨機応変さは、

本土人以上の能力(叡智)だと思います。

だけど、面白いのは、

琉球王国がそのようなことをしていた間でも、

竹富島は、相変わらず石器の鍬で畑を耕し、

極楽島だったそうです。

そんな沖縄本土よりも更に時間の流れがゆっくりな

竹富島のような島々には、今もきっと沖縄本土よりも

「沖縄」が残っていて、

しかももしかしたら、日本の奈良時代の古きよき風景や空気が

残っているのかも知れませんね。

先月末、沖縄に行った日々は、

もう半年以上前のような感覚があるほど、

大阪での日々は時間の流れが早いですが、

今度沖縄に行く時は、離島に行ってみたいと思います。

もしかしたら、司馬さんが出会った人・風景に

私も会えるかも知れません♪

『街道をゆく』では、そこにいる、何気ない人たちや風景が

多く登場します。

歴史や風土というものは、

「ごくごく一部の権力者が作っていくもの」

という感じもいたしますが、

それはあくまで『陽(表の見える世界)』の話であって、

実際に創っているのは『陰(裏の見えない世界)』に

確実に存在していた、

私たち一人ひとりのご先祖さま(一般大衆)の

人たちであるような気がしました。

DNAを電子顕微鏡で見たカタチのように、

その陰と陽(対立した存在)が、らせん状にからみあって、

しっかりと結合して紡ぐまれているのが

今の私の「歴史」というものをイメージしたものに最も近いです。

司馬さんが20代前半の、ご自身の軍隊体験の中で

「日本は絶対にこんな愚かな国家でなかったはず!」という

絶大なる疑問を、正に人生全てを懸けて、

日本人・日本国家の素晴らしさを「本」というものに

表現し続けれ来られました。

「本」は“ほん”と読みますが、“もと”とも読みます。

私にとって、司馬さんの本は、“ほん”ではなく、“もと”です。

大橋良子の“もと”であり、

日本人の“もと”であり、日本国家の“もと”であります。

今後も、合間合間の『閑の時間』を使って、

司馬さんの“もと”で、学びを、そして人生を深めて参りたいと思います。

ありがとうございました(%笑う女%)(%王冠%)