「失敗」で育つたくましさ 〜『チャレンジ通信』より〜

先日、兄夫婦が暮らす大津の家に行った時、

小学1年生になった姪っ子の学習机に

右の冊子がありました。

なんか「びびっ☆」と来たので、借りて帰って来ました(%ニコ女%)(%星%)

この冊子は、「進学ゼミ」で有名な、

「株式会社ベネッセコーポレーション」

発行しているものです。

そこには、小学1年生の子どもを持つ親向けに、

あれこれと優しく書かれていました。

それを見ますと、

今の子どもたちは、挑戦することを避けたり、

打たれ弱かったりして、「たくましさ」が減っているようです。

その「たくましさ」は、今の日本の若者(30代以下の・・・特に男性)にも

当てはまる傾向にあるような気がします(笑)。

その「たくましさ」は、自己の人生、その周りの人、

そして国家全体に活力や彩(いろどり)・・・

幸せへと続く活力(エンジン)になりますが、

それが希薄になっていることにより、

今の日本全体の勢いもなくなって来ているように思います。

この冊子と私の考えと併せて、ここに掲載されている

「失敗学」についてお話をさせて頂きます。

失敗から学べることは、3つあるようです。

①この程度なら大丈夫という「限界」を知る。

②けんかやけがをすることにより、心や体の「痛み」(自己と他者双方)を知る。

③同じ失敗を繰り返さないための「対処法」を知る。

「小さな失敗」を繰り返すことにより、上記3つのことを学び、会得しながら、

人生や心身に取り返しのつかない「大きな失敗」を回避し、

そしてよりよい人生を創造していくための糧にしていくんだそうです。

この「小さな失敗」を「失敗ワクチン」と呼ぶんだそうです。

学びにつながる「小さな失敗」は、親の関わりから生まれるようです。

愛するわが子が、失敗するのを見るのは、辛いので

ついつい失敗しないように「先回り」をする傾向にあるようです。

それが、子どもたちから「小さな失敗」を遠ざけ、

そして大人になって社会に出てから、一気に「大きな失敗」を犯してしまい、

引きこもり・自殺の遠因にもなるようです。

失敗するのを避けるのではなくって、失敗した後、

どう身の回りの大人が対処するかによって、

子どもたちの人生そのものも変わって来るようです。

失敗をした時、叱らずに、その失敗を乗り越えるための「導き」を

大人はすべきである・・・と書かれています。

「次も応援しているよ」「一緒にがんばろうね」などと

声をかけてあげることが大事とのことでした。

この「チャレンジ通信」に書かれていることは、

親子関係だけでなくって、会社における上司と部下をはじめ、

ありとあらゆる人間関係において、応用が可能だと思いました。

経験値がある人(Aさん)が、そうでない人(Bさん)を見た時、

「明らかにこのまま行けば、この事業は失敗するな」と

分かっていても、

『あえて、失敗をさせてあげる』

という視点は大事ではないかな・・・と最近感じています。

ただ、大きな失敗をしてしまいますと、

その人ばかりでなく、組織全体が大変なことになってしまいますので、

Aさんがさりげなくフォローをし、「小さな失敗」に変換し、

その人(Bさん)自身の、今後の成長の為にあえてそれを

体験させてあげるという方法です。

私は傷つくのがとっても怖いので「失敗」は避けて通りたいので、

直感的に「これは失敗する」というものや人間関係は

避けて通ります。

この「直感」は、20代の頃は時に、ことごとく外れ、

痛い目に遭って来ましたが、

30代手前で、四国遍路行を始め、倫理法人会などの会で、

学び&実践を深めて参りますと、

その「直感・直観力」が、だんだんと当って来るようになりました。

先日・19日、大阪・吹田市倫理法人会にて

講話をさせて頂きました。

20代・・・とりわけ28歳〜29歳に立て続けに起こった

自分自身の苦難(失敗)の連続で、完璧に人生の目的を失いました。

そこで、四国遍路に出会い、藁をも掴む想いで、一周回って、

30歳になって、今の新しい自分がある訳です。

その遍路行のお話しをさせて頂きました。

大学を卒業してから・・・22歳からも、大変でした。

良く持ちこたえていたなぁと、今振り返って、感じています。

(それは、両親をはじめ、身の回りの方々のおかげです)

同世代の子たちは「若い、20代の時に戻りたいよね〜」って

言っていますが、私は20代になんて戻りたいとは思いません。

(それなりの幸せもありましたが)

・・・遍路道では、白装束を羽織りますが、それは、「死」を意味します。

死んだ人と同じ服を着る訳です。

それは、一度死んだような気持ちになって、遍路行を行い、

もう一度生まれ変わるという意味合いがあります。

仮であっても一度死ねば、命があることが当たり前でない

「有難い」という気持ちになります。

命がある・・・『生きていること』それだけで「有難い」と思えるようになれば・・・

今までの苦難が

『幸福の糧やったんや』

ということに気づく訳です。

つまり「苦難があるから、幸福が存在」するのです。

人生が幸福しかなければ、それは「当たり前」の世界であり、

有り難味も何もありません。

20代の失敗が、今の、そしてこれからの私の人生を

たくましく生きる糧になっている・・・

それは、植物の「根」のように、目には見えないものですが、

今の私の支えとなっています。

そう思えば、二度と戻りたくない20代の私の失敗人生が

急に輝かしく見える訳です。

命さえ取られなければ、命の灯火を消さない限りは、

人生どうにでもなるし、どうにでも出来るのです。

ほんと、『若い時の苦労は買ってでもしろ』という古えの人たちの言葉を

とっても身に沁みています。

・・・今晩から夜行バスに乗って、今度は長野に行きます。

長野へは30代になって初めてのような感じがします。

23歳の時から、ちょくちょく参加していたある市民運動(NPO)に参加してきます。

大阪での生活がいや・・・といいますか、

大阪から逃げたい・自分のこと、見つめなおしたいと

「自分探し」をしに、20代の頃はよく、長野に行っていました。

35歳になった今、あの信州の美しい風景が

どう映るのでしょうか?楽しみです。

今年、久しぶりに長野に行くご縁を頂き、

何かステキな“意味”がありそうです(%笑う女%)(%王冠%)