“歓喜天本尊浴油秘伝供” in 奈良・吉野山 後編

その仏事が終って、静亭まで歩いて帰っていました。

雲間から、“中秋の名月”が見えていました。

なんとも言えない、美しい光を放ち、

遠い過去、そして遠い未来までも

静かにそして優しく灯しているような感じでした。

人間の心も嵐の日があれば、

美しいまんまるいお月様が見える日もあるねんなって

改めて感じました(%ニコ女%)(%星%)

静亭さんで、ごはんが炊けるのを待っている間や、

櫻本坊に行くまでの間は、

吉野山の静寂の中、右の本を読んでいました。

今、私が『古事記』を勉強している、竹田恒泰さん

(明治天皇の玄孫で、最近は「たかじんのそこまで言って委員会」にも

出演されてはります)

吉野で千日回峰行を満行された、塩沼亮潤さんの対談本です。

そもそも私が、この吉野山を知ったのは、3年くらい前に、

塩沼亮潤さんの本を、大阪倫理の先輩に頂いたことに始まります。

塩沼さんは、もともと、金峯山寺・蔵王堂に属するお坊さんで、

1300年の吉野の歴史の中で、2人目の千日回峰行の満行者という

なんともまー、すごいお方で、

最近は経営者の方々向けに講演会活動もされてはります。

今は、塩沼さんのふるさとであります、仙台市郊外で慈眼寺というお寺を創立され、

そこを拠点にして活動をされておられます。

もしも私が男であったのであれば、

塩沼さんのように、吉野の山で、修行したと思います。(吉野・熊野は女人禁制なんで)

だけど、私って一応女子なんで(笑)、

四国遍路行でガマンしております(更に、笑)。

そんなお二方の対談本『日本人の宝』で

特に印象に残った箇所を紹介させて頂きます。

①「中道」(=『流れ』に合わせる)という生き方

「中道とは、苦の原因を自らの行いによって断ち切ることを実践するための、

分かりやすく言えば、『生き方』であります。

感覚的な快楽に溺れる生活と、苦行者の修行のように

身をさいなむような苦行があるとすれば、

この2つの極端な生き方ではない、『まんなか』という

“ぶれない生き方”と中道と捉えます。

また、苦の解消のために、『無駄がない』それぞれの目的に合った

最適の実践道において、悟りを達成して、

ニルバーナ(涅槃)に赴くことを意味します」

・・・な、なるほど。。。

『中道』を目指さなければなります。

なお、外部環境や、内部環境(心理状態)によって、

そのベストな『中道』ってビミョウに変化してくると思います。

常に中道的な言動(心の在り方)を目指したいなと思いました。

②大自然から受ける教訓こそ、真の(宗教の)精髄である。

「花が咲き、鳥が鳴いているこの現象の中に真理を見つめる。

しかし特別に花や草が説法している訳ではない。

花は花、蝶はどこまでも蝶、そこから何かを汲み取る。

うなずきとる。

自分の心の中に受信装置を備えて、性能が細密になるほど、

大自然から何かをうなずきとる。

文字どおり、それらが説法していると解釈してしまうと、

自然崇拝になって、最も素朴な宗教であり、仏教ではなくなります。」

大自然との調和・合一する心が必要なんかな・・・と。

そしてその大自然の一部である、自分自身の中にも

ちゃんと「答え」(真理)は用意されているような気がしました。

誰かから・書物などの何かから教わった大自然の法則も

非常に重要なんですが、

やっぱり、教わることの根本・基本は、自分自身が直接

大自然から教わるというスタイルなんだと思いました。

ですので、行(ぎょう)・実践というものは、

人間にとって必要不可欠なんだと思いました。

③運命とは?

「人生全てが、運命というもので、あらかじめ決まっているのであれば、

誰も修行(努力)しません。

人間にはありとあらゆる可能性が秘められており、

努力によって、どうとでも変わるというのが仏教の特徴であります。」

④慈しみの心

他人を思いやる慈しみの心は大事で、

そもそも人間は、他人のために生きないと幸せになれません。

「他人のために生きた」という実感があってはじめて、

「生まれて来てよかった」と心から思えるのではないでしょうか。

つまり、人間にとって一番の喜びをは人と人、

そして自分の心を相手の心が共感しあっている状態、

お互いに絆を深め合っているときに感ずる喜びが、

一番の喜びではないでしょうか。」

⑤世執と法執という名の執着

『世執』とは、「この人嫌い」「こんなものが欲しい」という我欲全般を差します。

これは妬みやうらみの世界(心)しか創っていきません。

おかげさまで、私はこの世執に関しては、

だいぶ取れて来たようです。

が、次が私の今の“課題”のようです。。。

『法執』とは、『世執』を超えた人に

次に来るハードルのようです。

「人間が真理の世界に近づいて来ると、だんだんと理にかなった

物の見方・捉え方が出来るようになり、

上手な生き方が出来るようになります。

しかし怖いのは、そういう心の状態まで辿り着くと、

自己の頭の中にある、法の知識でもって

人(世執心を持った人)を批判してしまう心が出てくるのです。

たとえよいこと・正しいことでも、その法という知識を

ふりまわして人の心を傷つけるのはいけません。」

「私よりも●●やのに、こんなことも分かってへんのぉ〜」

「こうこうしたら、ぱっぱっって解決するのに〜」的なこと、

ちょこちょこ、あるんですよね(笑)。

正に今の私って、法執心真っ只中なんやって、

ハンマーで頭をがつーん☆とドツカレタ気分になりました(%とんかち%)(%ショック女%)(%涙%)

ほんと、反省とか通り越して『懺悔(さんげ)』です。。。

塩沼さんいわく・・・

「修行して修行し切ったこと・・・悟ったことさえも捨て切る。」

(悟ったこと・内容を捨てるのはでなくって、

悟ったという自尊心とか優越感というたぐいのもの・執着を捨てるという意味です)

法執心を持つ人間とは、つまり

「私は、世執心を持った人よりも、先に修行が進んでいる」

ある意味、自尊心的なものを

捨てていない人のことを差すんですよね。

だから、世執心真っ只中の人から、何らかのとばっちりを受けたりすると、

かちーん☆ってキレて、自身の知識と経験をフル活用して

『正論という武器』で、ついつい、やっつけてしまうんです(涙笑)。

特に男性・・・“私よりも男らしくない男”(!?)には容赦しません。

理事会とかでも、バンバン☆発言しますし。。。

(がんばって本物の男になって頂きたいので、『期待の裏返し』でもあるんですが・笑)。

塩沼さん曰く・・・

「悟ったことさえも捨てきった時、世執法執という“嵐”が去り、

穏やかな世界に包み込まれるのです。

そうなるともう怒らなくてもよくなります。

怒ったり、叱ったりしなくても、ニコニコとしているだけで、

すべてがうまく回っていく。

また周りの人もストレスなく働くことが出来、

自分だけでなく、みんなの幸福感が増すということになります」

さすが、千日回峰行をされた大阿闍梨(だいあじゃり)の塩沼さんです。。。

お言葉のレベルが違いすぎます。。。

しかも、めちゃくちゃ分かりやすいお言葉です。。。

今月末・年末と四国お遍路行に行き、今年中に満行しますので、

それ以降は、世執・法執両方の執着心を捨てきり、

(自分自身のことも含め)全てを許しきる境地に、

出来るだけ多く達したい・・・って、今、意気込んでいます。

ほんと、1300年以上続く、日本の“行”というもの。

知れば知るほど、奥深く、感謝、感動です。。。

明日から、また更に朝起きなどの実践を深め、

精進して参りたいと思います。

ありがとうございました(%笑う女%)(%笑う女%)(%笑う女%)(%笑う女%)(%笑う女%)