風邪が完治し、ほっとした後すぐに、
訃報が入りました。
まだ40ちょっとの、地元の企業家仲間のおにいさんが、
一年くらいの闘病の末、この世から旅立って逝かれました。
お通夜とお葬式に参列させて頂きました。
別れをしのんで、お通夜では、500人くらいの方が
来られてはりました。
神か仏か、大自然か、サムシンググレイト的・・・
絶対的な存在か・・・何かのしわざで、
おにいさんは一足早く逝ってしまいました。
まだまだ生きたかった・・・。
奥様やお子様、
夢や希望・・・
たくさんあったのに・・・。
神様って、時に残酷で、
人間が何がどう考えても、答えを導き出せない・・・
そしてどれだけ科学が進歩しても
人間がどうしようも出来ない難題を
次から次へと突きつけて来られます。
お葬式が終わり、最後のご対面も終って、
出棺されていきました。
ふっ・・・と後ろにあった、
誰もいなくなった祭壇を見てみると、
遺影の上・・・最も高い所に
「南無阿弥陀仏」と書かれていました。
私の地元・八尾では、浄土真宗のお葬式に出くわすことが多く、
我が大橋家も浄土真宗です。
阿弥陀如来は、浄土真宗・浄土宗の本尊で、
それで「南無阿弥陀仏」と書かれていたようです。
なんとなく、こんなことが起こった後って、
何もする気が起こりにくく、
机の前に座って、ぼーっとしていました。
ふっ・・・と、自分の左腕にしていた数珠に目が行きました。
「あれ。ここに『阿弥陀如来』って書いてあるやん。
『南無阿弥陀仏』とちょっと似ているなー」って思い
ちょっと調べることにしました。
この数珠は、歩きお遍路をする前に、
香川県倫理法人会の元会長(現・法人アドバイザー)の
松岡賢さんから頂いたものです。
松岡さんは、四国などのお遍路グッズの製造販売業を
香川県でされておられ、その会社に見学に行かせて頂きました。
私は仏教の知識も殆ど持っておりませんが、
如来は4種類存在することは知っていて、
私は松岡さんからそれを頂く直前・・・
「阿弥陀如来って何か意味不明やから、大日如来がほしい〜」って
煩悩200%のイケテナイ発想をしたことを覚えています(苦笑)。
大日如来は、私の乏しい知識でさらりとお伝えしますと、
「オールマイティー」的な如来さんで、如来の中のリーダー的存在。
何でも願いを叶えてくださるというもののような印象があったので、
それがいいと欲張った訳です。
だけど、今になって、なんで私の腕に、今、
阿弥陀如来がおられるのか、その祭壇を見た瞬間、
なんとなく、掴めたような気がしました。
阿弥陀如来は、西方・・つまりあの世の方角におられる如来なんだそうで、
人々は阿弥陀如来に対して
「安らかに、あの世に旅立てますように」
「悪いこといっぱいしたけど、極楽浄土に行けますように」と
死んだ後に関してのお願いを、
古の日本人はずっとし続けてきました。
一方、四国88ヵ所のお寺で、
ダントツで一番に多いご本尊は、薬師如来です。
阿弥陀如来さんは西方・あの世ですが、
薬師如来は、東方・こっちの世方面の如来さんで、
「病気が治りますように」とか
「いつまでも健康で暮らせますように」とか
いかにいい生き方をするのか?という
現世においてのお願いをする如来です。
(ちなみに4つ目の如来は、釈迦如来で、
お釈迦さんのようなええ人間になりたい的な、
人(のあり方・やり方)にスポットを当てたお願いごとをするような雰囲気です。
すいません、かなり曖昧で勉強不足です。)
四国88ヵ所のお寺だけ見ても、
いかに人間は、永い歴史の中で、
生きることと死ぬこと〜生と死〜に悩み、こだわって生き続け、
そして死んで逝ったのか・・・その風景がうっすらと見て取ることが出来ます。
四国86番・志度寺に、
「南無はおまかせ 無心の世界」と書かれていました。
となりますと、「南無阿弥陀仏」の意味は、
『阿弥陀仏におまかせします』
ということになります。
あの世をつかさどる「阿弥陀仏」に一切をお任せします・・・
という絶対的存在であるもの(仏教においては“仏様”)に
全てを委ねる、朗らかでスナオな境地に達した時、
人ははじめて『悟り』というものを得、仏(人で無い)になっていき、
全ての苦しみから解放され、真の幸福を得られるのではないか・・・?
そんなことを、ふっ・・・と感じました。
倫理法人会で学んでいる基本テキスト
『万人幸福の栞』に「死は生なり」というページがありますが、
その中に、
「人間がこの境地に達せないのは・・・
永い歴史を通じて養われて来た習慣(偏見・まちがった概念)・・・
また、理屈ではそうだと分かっていても、感情が許さない・・・云々。
と書かれています。
この人間の生と死に関する真理・事実をはじめ、
人間に関連する全ての真理は、
おのおのの人間の感情によって、変えられていて、歪められている・・・
ということを私は、四国歩き遍路行で
なんとなく気づいて帰ってきました。
本当は真理って、一つなんですよね。
だけど、Aさんはこう言って、Bさんはあー言って、Cさんはそう言う。
みんなバラバラ。誰が言っていることがホンマに正しいのん?って感じ。
これって、その人・その人にとっては、真理であっても、
『本当の真理』じゃないんですよね。
分かりやすい言葉で言うと、全員「主観」な訳です。
その人、その人の感情・見方・考え方などの
『フィルター』を通して見た「主観」なんです。
この自分自身の感情(つまり主観)の支配下から、
如何にして自己の心を開放し、
誰の感情・何の感情にもおかされていない、
ありのままの・空(くう)の状態で物事を見ることが出来るのか・・・?
それが出来てはじめて人って、客観視が出来るんだと思います。
それは、第三の目・・・『心眼』が開いて来た証拠です。
一見、客観的視点・論点で話している人は多いですが、
かなりの割合で主観が入って、しかも
自分自身にとって都合のいい・有利な方向に
事態を持っていこうとしている人は多く見受けられます。
誰かの何らかの意図で発信された「主観」ではなく、
絶対的・唯一無二の真理に基づいた「客観」だけを見定めるという心眼を持ち、
その上で、それを元に状況判断をし、考え、行動する必要性が今、
とても求められているような気がします。
私がそもそも、四国遍路行に出た理由は、
「なんで人って、生きているのか?」
「人はどう生きるべきなのか?」という
問いの答えを見つけたかったからです。
きっとその答えは、私がこの世を去る瞬間に悟る・・・
はっきりと明確化するんだと思います。
だけど、少しでもその問いに対する答えに
今生きている間に、近づくことだ出来れば、
もうそれだけで、今を生きる幸福度が増していくと思っています。
人が産まれる瞬間と、死ぬ瞬間が最も嬉しく、辛い瞬間であります。
感情の起伏が激しい時ほど、
得られることって大きいと思います。
今後も阿弥陀如来を身近に感じながら、
生と死という人間にとっても最も難題で
そして実は最も身近な課題について
感じ、考え続けたいと思います。
生と死は表裏一体であり、
この生死から沸き起こる、負の感情から開放される(つまり「死の超克」)と
どんな人生の苦難が来ても、どってことなくなると思います。
もっといろんなことを知って、感じて、
もっと強く、しっかり生きていきたいです。
・・・ほんと、今では阿弥陀如来が最も身近で
輝いている存在になりました(笑)。
これからも人生、いろいろあろうかと思いますが、
生かされているという幸せを常に感じながら、
先に逝ってしまった方の分まで、一所懸命、この与えられた命を燃やし続け、
そして自分自身が逝く時に、
生きている人たちに最後に何か大きい・いい気づきを
もたらせるように、今をせいいっぱい生き抜きたいと思います。
ご冥福をお祈りいたします。