毎度です〜っ(%笑う女%)(%星%)
う゛・・・さ・ぶ・い〜〜〜っ(%痛い女%)(%痛い女%)(%痛い女%)(%痛い女%)(%痛い女%)
今、この冬一番の寒さなんだそうです。
この冬三回目の、喉の風邪に
ビミョーにやられておりますっ(%とんかち%)(%痛い女%)
ですので、5袋目の「梅のど飴」をゲットしてキマシタ・・・。
こうやって、ワンシーズンに三回も風邪ひくって、
もう年やなぁ・・・って思います。。。(%ショボ女%)(%涙%)
35歳って、世間で言えばぐっと若いかと思われますが、
20代の頃に比べると、着実に『老い』が忍び寄っている・・・
という感じでゴザイマス(%ショボ女%)(%涙%)
体調がちょっとよくなくなると、痛くなる箇所が何箇所かあります。
やはり、弱いところから順番に老いって来るんかなって
客観視しています。
こんだけ寒いと、身体の温度が下がってきますので
その弱いところが痛くなってきたりします。
いくら「生きたい」と思って頑張っていても、
この身体が持たなければ、生きることが出来ない・・・
最近、そんな当たり前の事実を、ひしひしと感じています。
一番大事なのは、物でもお金でもなくって、
まず己自身の『命』であり、心身の健康であろうかと思います。
たまには心身にとって、無理をしまくらなアカン状況はあろうかと思いますが、
なるべく無理・無駄をなくし、健やかに健康で、
ステキに天寿を全うさせて頂きたいなと思います(%笑う女%)(%王冠%)
・・・最近一つ、気づいたこと(よしこちゃん的“仮説”です)があります。
“命”という漢字と、“魂”という漢字の意味合いの違いが
なんとなーく理解できたような気がしています。
例えば、「命がある」と「魂がある」という2つの言葉があって、
その違いが、今まで意味不明だったんです。
「古えの偉人達が、同じものを、違う漢字・言葉で表現する訳がない」
そう思っていたんですが、その2つの違いがチンプンカンプンでした。
昨年までの歩きお遍路中、その2つの違いについても
あれこれ考えていたのですが、最近、ぽっ☆と閃いた仮説があります。
ちょっと怪しい宗教っぽい話かも知れませんが(笑)・・・
まわりくどい言い方でその仮説を披露させて頂きます。
まず、『命』とは、
人間の姿形をした身体という“容器”と、
その容器にすっぽり入ることが出来る“魂”が合一した状態の物・・・
つまり生物が生きている状態を『命がある』と言うのではないのかな?と思いました。
で、『魂』とは、姿形はなく、
「どこかにある訳でもなく、どこにでもある」という
人間の思考や想像を超えた・・・捉えどころのない、無限の宇宙全体に存在するもの・・・
般若心経で言う『色即是空 空即是色』的な
世界(つまり『幽界』)に存在するものなんだと思います。
・・・人間を人間とたらしめるものは2つあるのではないか?と思います。
①魂(中身)
②身体(容器)
魂というものがまずあって、その魂が身体に入り
それらが合一して始めて、
人間(生物)が人間として命を与えられ、産まれて来るのではないか?
そんな風に思います。
分かりやすく例えますと、
運転手が「魂」で、自動車が「身体」のような、関係にあるような気がします。
たとえ新車があっても、運転手が乗っていなければ、車は動かないし、
カーライフを楽しめません。ただの塊(カタマリ)です。
また、いくら運転手がその車をもっと乗り回したくっても、
車がどう治しようもない故障をして、うんともすんとも言わなくなったら、
その運転手は、その車から降りて、“廃棄処分”をしなければなりません。
「(身体的に)死んでも、魂は永遠なり」
そんな言葉が古えよりありますが、
私はその言葉は、真理だと捉えています。
(そう捉えた方が、死に対する恐怖とか、生に対する過剰な執着が削がれて
精神的にいい感じです♪)
“自動車”(身体)は有限であり、一回きりの使用になりますが、
“運転手”(魂)は無限であり、永遠になくなることはなく、
何度も違う自動車に乗り換え、“輪廻転生”しているのではないか・・・?
そんな風景が、遠方にちらっと見える感じがいたします。
運転手が、その車を乗ることによって「命」というものが与えられ、
この人生の遍路道を、何度も交通事故とか故障とか・・・
いろんな苦難を味わいながら、“魂の練磨”をします。
魂の練磨は、命というものがなければ・・・つまり、
身体と合一しなければ成し得ないものなんだと思います。
“魂の練磨”=人生修行です。
日本人の『道(どう)』という考え方がありますが、
人間、死ぬまで修行です。
修行の道に終わりがありません。
四国遍路道のように、88番まで回ってもまた1番に戻ります。
正に輪廻転生(笑)。
ですので、今生きる私達は、「身体」というかけがえの無い・・・
乗り換えのきかない、一つだけの身体を両親(御先祖様)から頂き、
この天寿を全うさせて頂いておりますので、
この身体に感謝し、いたわりながら、日々謙虚に
修行を積んで参りたいなと思います(%ニコ女%)(%星%)
こんな極寒な中でも
我が家の近所にある踏み切り側の梅が
満開になっています(%笑う女%)(%王冠%)
私が知る限り、ご近所界隈で最も咲くのが早い
梅なのではないかと思います。
こんな寒い・・・
「ホンマに春って来るんかいなぁ〜(%ショボ女%)」って嘆く
私たちに希望を与えてくれる存在やなーって思います。
この梅を撮影したのは、ちょうど朝のラッシュの時で、
踏み切りは、あっという間に閉まって、双方向に矢印ついたりして
行き交う人、ほぼ全員・・・まさに
『“忙”(心を亡くす)の顔相』をされている人ばかりで、
この梅を愛でている「心のゆとり」は皆無でした。
結構な数の人が今・・・
「あーあ、人生おもんないー」とか
「ええこと、あんまりないー」とか、
「こんなことがあって、しんどいー」とか
不足不満を言い放っておられますが、
踏み切り沿いに咲く、小さな梅の木を愛でている時に感じる
“小さな幸せ”(幸福感)のように、
その人、その人にとっての、幸せ・・・美しいもの・ことって、
確実に存在するんですよね。
その事実に気付いていないのは、本人だけ。
例えば、喫茶店とかで
姑・小姑・舅・旦那・子どものグチを言ってはる女性の方って
圧倒的に多いんですが、
私は独身なんで、それら全てがおりません。
だから、羨ましいんですよね。『隣りの芝生は青い』状態デスワ♪
その人にとっては目の上のタンコブのようですが、
私にとっては宝石のような感じです(笑)。
結局のところ、幸せって、「自分で感じるもの」だと思います。
小さい幸せを感じられない人は、
いくらはたから見て、羨ましいものをたくさん手にしていても、
幸せやないと思います。
ですのでまずは、足下に確実に存在する小さな「幸せ探し」(美点発見)から
はじめてみたいと思います(%ニコ女%)(%音符1%)
・・・私はもちろん桜も好きですが、梅もかなり好きです。
「松竹梅」と昔から言いますので、
古えの日本人は、①松 ②竹 ③梅 を特に愛でていたんだと思います。
その3つの植物の姿形も日本人好みなんだと思いますが、
それらの有り様(植物の生き様)も、魅力的だったんだと想像しています。
梅は、先ほども書かせて頂きましたが、
極寒の風景の中に、待ちに待った春の存在を知らせる最初の花になります。
寒い時期に花を咲かせる植物って圧倒的に少ない中で、
この冬→春・・・ちょうど立春を過ぎたあたりから咲く梅を
日本人が愛で続けて来たのは、容易に想像がつきます。
私の自宅には、松と竹が生えているので、
今度はそれらをじっくり観察して、考察したいと思います(笑)。
来週からまたちょっと四国に行くので
またちょっとドタバタですが、楽しくがんばりたいと思いま〜す(%笑う女%)(%王冠%)