美について 〜科学精神と芸術精神〜

毎度です〜(%笑う女%)(%王冠%)

ここ一週間くらい、ステキにドタバタしており、

先日行きました高野山での気づきレポートを

ブログ更新するのをすっかり忘れていました(%とんかち%)(%痛い女%)

・・・私の36歳の誕生日・3月14日前後、

四国88ヵ所霊場巡りの本当のゴールであります高野山に

2泊3日、不動院という宿坊で、篭っていました。

部屋でインターネットが出来、しかもちょっと奥まったところにあって

静かな宿坊ということで、選ばせて頂きました。

ここの新館・一階に泊まらせて頂きました。

ネット(じゃらん)で一人客は全員この新館しか泊まれないようになっているようですが、

二名以上だと、綺麗なお庭が見える「特別客室」がイイカンジです。

値段は13000〜15000円くらいかな?

ただ、ネット&じゃらんでは公開していないお部屋があるんです♪

「本館」のトイレとかテレビなしの、ふすまのみで仕切られたお部屋です。

ここならば、12000円で泊まれる上、

いかにも『昔ながらの宿坊』がマンキツ出来ます。

昔ながらの宿坊って、ふすまで仕切られていて、鍵なんてついていないんですよね。

だけど、四国遍路道での宿坊とか、遍路宿って、

未だに鍵なしの部屋って健在なんです。

それだけ安全で、人を信頼し、性善説なアットホームな空間な訳です。

だけど、万が一何かがあってはいけないということと、

それに慣れているお遍路さん以外は、鍵無しの部屋に抵抗があるので、

それで、ネットでは公開していないそうです。

私は宿坊(遍路中)は絶対にテレビは見ない主義なので、

次高野山に行く時は、ここの本館で泊まるつもりです〜♪

それから、やっぱり書いておかなければならないことは、

「高野山 奥の院」の凄さです。

ほんと、ここは正に聖地。

全然『気』が違います。。。

私はここに行って、弘法大師・空海は

「まだ、生きている」

と確信しました。

今も、奥の院におられて、

時々、、、っていうか、いっつも、あっちこっち四国とかに出掛けて

迷えるお遍路さん(人)を救い続けている・・・そんな感じがしました。

人間の死とは、①生物的な死と②精神的な死

(生きている人全員に忘れ去られた瞬間)と2つあると聞きました。

空海は1200年くらい前に、肉体的には死んでなくなっていますが、

未だに多くの人たちの心の中に空海は生き続けています。

ですので、空海はまだ精神的に死んでないということです。

ようやく上巻を読み終えましたが、

司馬遼太郎さんの『空海の風景』は、司馬小説で最も好きな小説です。

『1200年前の風景』が司馬さんによって、綺麗に見えて来るんです。

その小説の中では、生身の空海が、四国を、大和国を、そして中国・長安を

リアルに、そして力強く駆け抜けているんです。

今度高野山かどこかに篭った時は、この『空海の風景』を踏まえ、

弘法大師・空海という生身の人間の凄さ&今を生きる私達が学ぶべきことを

このブログでもまとめてみたいと思います。

ほんと、1200年経っても、人間の求める姿、あるべき姿は

なんら変わっておりません。

私が2泊させて頂いた、不動院には、

小さな図書館がありました。

せっかくなんで、ちょっと行ってみました。

訳ワカラン仏教の専門書も結構ありつつ(笑)、

目に留まったのは、『美について』という本。

初版発行は、昭和16年8月。

あの第二次世界大戦が始まった年・真珠湾攻撃があった年です。

著者は、高村光太郎(1883〜1956)という彫刻家&哲学者。

その本の中の「芸術精神」と「科学精神」という言葉が

強烈に納得出来て、チョー印象的でした☆

まず「科学精神」とは、

『自己に内在する“科学する心”・・・

全ての物事&事象をよく観察し、客観的且つ的確に認識すること』(知性)

「芸術精神」とは、

『自己に内在する“美を感じる心”・・・

全ての物事&事象から、美を感じ、自らの力で美を創造・確立していくこと』(感性)

・・・まとめると、こんな感じかと思います。

人間にはこの「2つの精神」が必要不可欠だということです。

高村光太郎氏は彫刻家なので、芸術精神のことが多く書かれてはりましたが、

この2つの精神の埋没が、日本国家をも埋没させていて、

それらの精神の覚醒を、今、国民一人ひとりに求められている!と、

その本に書かれていました。

(※高村記念館というものが、岩手・花巻にあるそうです〜行ってみたい^^)

それって、昭和16年の本やのに、

未だにその本の内容が、ピッタリなこの日本って、一体。。。

軽くショックを受けました。

つまり、敗戦後、経済的な成長はこの国家は達成したかと思いますが、

高村氏が言う、精神的な覚醒(精神的な成長)は

イマイチまだ達成しきれていないという事実です。

そこで、私はその図書館で、悶々と考えていました。。。

「経済革命」は起こって、おおまかにその革命のミッションは完了した訳ですが、

これからの日本の次に起こることは「精神革命」なのではないかな・・・と。

昨今から続くバブル崩壊(=今までの経済革命の終焉)・・・

一昨年、東日本大震災(自然環境による革命)が起こっていますが、

これらの一見悪の現象は、「精神革命」が起こり始めている

という現象なのではないでしょうか?

つまり、これからもこのような、一見悪の現象は起こり続け

(次来るには、政治革命による精神革命が起こるような気がしています)

この日本が、日本人一人ひとりの心がもっと

今までに無いことが起こり、複雑化し、混乱して来るんです。

ここで日本人が、大きく分けて二手に分かれます。

今までの経済革命の成功体験を捨てれずに、しがみつき、

時代が悪い、社会が悪い、政治が悪い、会社が悪い、他人が悪いと

人生の不幸を、永久に人のせいにして、

永久にそれと一緒に時代の敗者になって朽ちて行くか・・・

(もしくは、全てを悲観し、自滅するか・・・です)

今までの時代(成功体験)をきっぱりと潔く捨てて、

新しい精神革命下の新しい日本に希望を見出し、

自己研鑽しながら、自己の幸せな人生・すばらしい国家を創造する

礎となって行くのか・・・

この二択しかないように思います。

後者の人間の具体的分かりやすい例が、幕末の志士たちでございます。

我々日本人の10割が、後者にならなくっていいんです。

熱意のある、“平成の志士”が一割くらい現れれば、

この国に精神革命が起こって、

この国が一気に混迷をぶち破り、春の時代がやって来ます。

今は、あまりにも平成の志士の割合が少なすぎて、

革命が起こらない・・・中途半端な状態なんです。

しかも、数少ない平成の志士たち同士が、

お互い「俺らがホンマモンの志士や〜」って、対立し続けている訳です。

まるで、幕末の薩摩藩と長州藩の関係のようです。

ほんと、歴史を少しかじっただけでも、

「歴史って繰り返されるんやなー」って深い学びが得られます。

私は「あり方(日本をよくしよう)」が同じであれば、

革命を起こす組織(やり方)が違っても一緒になって

活動すべきだと思うのですが、

どうも男性が作る組織って、縦社会で排他的傾向にあり、

客観的に見て、残念だと感じています。

一方、女性は横をつなげる・横串を差すのが得意であります。

しかしながら、女性的思考を持った人が集まると、

ただの「仲良しクラブ」になり、和(うるおい)はあっても、

時代を動かすような活力は生まれて来ません。

そこで必要なのは、男性的女性的(つまり陰陽)双方を併せ持つ

ハイブリッドな『繋ぎ役』の存在です。

直感力豊かな人は、もうあの人の名前を想像されたかと思いますが・・・

今こそ、

坂本竜馬

のような人・組織が求められている訳です。

バラバラになっている人・組織を線にして面にして

一つの球体にすることが今、求められています。

司馬遼太郎さんが何故「竜馬がゆく」を書かれたか・・・

それは、今・そしてこれからの日本人にとって必要になる人だからと

先の時代を達観しておられたからだと、私は確信しています。

そう思いますと、司馬さんの凄さも、併せて感じます。。。

先程、『ガイアの夜明け』を見ました。

伊勢丹の新宿本店を、今までにないやり方で

100億円かけて大胆にリニューアルオープンしたという

ドキュメンタリー番組でした。

ここでも出て来たのは

「今までのやり方(成功体験)を捨てる」でした。

多くの人が陥るカンチガイは、

「今まで得たことを持ったままで、新しいものをどんどん持っていける」

と思い込んでいるところです。

両手にあれこれ持っていて、それに更に「あれもこれも」と持とうとする有様です。

人間一人が持てるものは、たかが知れています。

(あの世には、全部持っていけません)

昔は宝石だったものは、時代が変わり、ガラクタになっている・・・

ガラクタですら未だ手放さず持っていて、日々、しんどい・重たいと言っている。

つまり、

本当に得たいものを見つけた場合、

まず、持っているものを出来る限り多く捨てないと、

得られないという真理です。

これを「発顕還元の原理」と言います。

つまり、「出せば入る 出さない(捨てない)と入らない」ということです。

人間の本当に幸せって、

多くのガラクタ(不必要な人間・物事・事象)に囲まれて過ごすのではなく、

本当に必要な宝石だけを抱えて、生きて死んで行くことなんですよね。

たとえガラクタであっても「何も持っていないよりマシ」と思い込んでいる人が

圧倒的多数でございます。

叡智を持つ人間の究極の幸せは

「足るを知り、必要最小限のものだけ持つ」・・・

そして「何も持たない」というところにあろうかと思います。

「全てを捨て、全てを得る」

ここに、般若心経の『色即是空 空即是色』の境地があるように思うのです。

全ての煩悩(=不足不満)から開放された状態を解脱といい、

その有様を成仏と言いますが、

それが、本来の人間の向かうべき姿であり、

物を所有すればする程・・・それをずっと手放さないと

澱んだ水のように、そこから強烈な悪臭が漂い、

その物をそしてその人を腐らせて行く訳です。

川の流れのように、そんないろんな物・心を循環させるという

物事の考え方、人生の生き様を、私達、叡智を持った人間は

目指すべきなのではないでしょうか?

・・・精神革命前夜に産まれた、今の子どもたちは、

ある意味、私達大人よりも、優秀な感性、そしてDNAを持っています。

ただ、その持っているDNAを開花させるためには、

我々大人がしっかり精進しないと、開花できません。(鏡の法則)

子どもたちのそれを開花させないと、

近い将来、この国家は革命に失敗し、崩壊する訳です。

この国をこの地球を・・・次世代によりよい状態で継承して行くために、

今一度私達日本人は襟を正して、仏教用語で、

解脱し、成仏状態を目指さなければならないと、ひしひしと感じています。

・・・んまー、こんなことを高野山で考えていました(笑)。

ほんと、36歳独身女子から、どんどん解脱してシマイマシタ〜(%とんかち%)(%痛い女%) (%ニヤ女%)(%ハート%)