・・・そんな言葉が、ふっと降りてきました。
さっきまで、奈良・上牧町の「虹の湯」という
スーパー銭湯にマイカーで行っていました。
自然豊かな場所に行く+お風呂+ドライブ
どれか一つでも、結構心身が柔らかくなって、
忘れていた大切なことや、アイデア等、
いろんないい気づきが得られます(%ニコ女%)(%音符1%)
先日、高野山に行き、
自己の内観を深め、更に自己の能力
(=幾百千と積み重なって来た、私のよいDNA)が
また更に高まり、そして開花し続けているような感じです。
それに併せ、いい気づきや行動が出来ています。
右上写真は、篭っていた高野山の宿坊・不動院に
ディスプレーされていた、骨壷と位牌です。
仏教では、生きている人間は、身体と魂が合一し、
「命」というものが与えられている状態ですが、
生物学的な死を迎えると、身体と魂が分離し、
身体(骨)は骨壷へ、そして魂は位牌の中に入ります。
人間、誰しも必ずこの骨壷と位牌に入る、宿命になっております。
誰一人として、死から逃れた人はおりません。
その辺りの覚悟(試練)が、我々人間には常に求められております。
やがて身体(骨)の方は土へ帰り『無』になりますが、
魂は、33回忌か50回忌か済んで、上がりますと、
またしばらくして地上界へ戻ってきて、人間か何かの動物の身体と合一し
「輪廻転生」すると言われています。
(実際そうなのかは、自分で一度死んでみないと分かりません・笑)
先日のブログで・・・
「人間の死は2回訪れる」と書かせて頂きました。
一回目の死は生物的な死。
心臓が止まって、お医者さんに「ご臨終です」と言われる瞬間です。
二回目の死は、精神的な死。
この地球上で生きている人たち全員から忘れ去られた瞬間です。
この2つの死を経て、人間は初めて「死ぬ」のではないでしょうか?
となりますと、弘法大師・空海を始め、今でも尊敬されている歴史上の人物って
一回目の死はやって来ましたが、二回目はまだですので、
まだ本当には死んでいないのではないか?
最近私は、そんなことを考えています。
その一回目の死によって人間は
あらゆる財産(お金・不動産などあらゆる物質)を残して
あの世に旅立ちます。
なぜ、全ての物質を置いていくのか?
それは、あの世には、魂しか持っていけないからです(笑)。
生きている時にどんだけ大切にしていた物でも、
どんだけ大切にしていた人でも、一緒に持って行けないようになっています。
っていうか、あの世というものには、
物質というものは必要ないから、
『持って行く必要が無い』という言葉の方が
正確なのかも知れませんね。
物質(目に見える物)があるからこそ、人は妬み苦しみ、嘆き悲しみ・・・
つまり煩悩を抱え、
そしてそこから人生の真の目的や、真理を掴む為の
『道』を一歩一歩、歩んで行くんだと思います。
この世は「娑婆の世界」であり、修行の場であります。
それと比べ、実はあの世の方が
真の幸福の世界(不足不満のない全て満たされている「成仏世界」)
があるように思われます。
(人間が死ぬ瞬間って、殆どがもがき苦しむので、あの世の方が
暗くて怖いイメージしかありませんが)
「人生は、何を残すのか ではなく 何を遺すのか で決まる。」
その言葉の真意ですが、
一回目の死によって、生きている人間にもたらされる(残す)
物質の量の多さではなく、
一回目の死から二回目の死までの間に、
生きている人間にもたらされる(遺す)モノの方が、
本当な重要なのではないか?
・・・ということです。
先日もまた、死んだ親のお金&不動産の財産分与で、
「もっと欲しい」「なんで兄だけ、そんなに多いねん」等など、
子ども(兄弟姉妹)が争っている事例を
直に聞いてしまいました。
自分の力で稼いでいない(創り出ししていない)物(お金)なんて、
結局自分で自分の人生を堕落させ、破滅に追いやるるだけやのに、
古今東西、ずっとこんな愚行を繰り返している訳です。
ほんと、学習能力のない動物的なDNAが、今も蔓延り続けています。
“哀れ”としか言いようがありません。
例えば現在、一回目と二回目の死の間にあられます、
弘法大師空海は、今を生きる私たちに、物質的に何かを与えてはくれません。
しかしながら、四国遍路道をはじめ、様々な心身練磨の場所を提供し、
そこで素晴らしい心のあり方を、今も私たちに教えてくださっています。
ですので、弘法大師空海のような一回目と二回目の死の間にある
素晴らしい人たちは、今を生きる私たちに素晴らしいものを
“遺して”くださっています。
更に深読みしますと、
人の人生の本当の意味や価値って、
この一回目と二回目の死の間にある・・・って見えてきました。
そうです。
お医者さんに「ご臨終です」と言われた瞬間からが、
今まで歩んで来た人生の本当の価値が発揮され始める
真の“スタート”なのではないか?そんなことに気づき始めました。
今の世の中では、「ご臨終です」と言われたら、それでゴール・・・
つまり「THE END」的考えです。
例えば私が、「ご臨終です」と言われ、私の遺族、知人友人全員が、
「ああ、やっと、死んでくれた〜、よかったぁ〜!
さっさと、よしこちゃんのことは忘れよ〜!」って言われ、
一回目の死と二回目の死が同じタイミングで来たら、
「私は何のために、生きていたんやろ?」って正に絶望すると思います。
逆に、「ご臨終です」と言われ、私の遺族、知人友人全員が、
「惜しい人を亡くした・・・長生きして欲しかった。私もよしこちゃん見習って
あれこれがんばろう!」と思って頂き、
事有るごとに、私のことを思い出し、お墓参りでも続けてくれたら、
ほんと、苦労して生きててよかったぁ〜!って
あの世で万歳三唱しているかと思います(笑)。
ですので、一回目の死では、物質的な物は何も残す必要はなく、
一回目と二回目の死の間に何を遺してあげられるか?
そこに焦点(着地点・ゴール・目標)を当てた上で、
今の人生修行を、精一杯全うすべきかなと思いました(%笑う女%)(%王冠%)