現在、奈良県南部にある天川村の

洞川(どろがわ)温泉におこもり中〜(%ニヤ女%)(%王冠%)

この洞川温泉郷から大峰山へと

多くの行者さんが山修行に向かわれます。

この大峰山での修行場は、全国で唯一、

“女人禁制”の風習が残っている行場であります。

私はこの手の修行は大好きなので、

初めてそのことを聞いた時は

「男子だけ、修行出来てずるい〜っ(%痛い女%)」って思ったんですが(笑)、

あれこれ聞いて調べてみますと、

やっぱり1300年の歴史に沿って、

女人禁制を保つ方がいいと考えるようになりました。

男性が、自身の命をも懸けて修行をする場に、

女性も存在しますと、どうしても男性って

本能的に気持ちがそっちに向いてしまい、

修行に専念出来ないかと思います。

男性は、女性や子供を守る『性』ですので、

体力的にも精神的にも強くなければなりません。

だから、女性の目を気にしないで、

自身の弱さや愚かさと戦い、克服しながら、

切磋琢磨修行に励む場が、この日本の中に未だ残っているのは、

本当に有難い&凄いことだと思います。

きっと、この洞川温泉郷の凛とした、

何とも言えない洗練された&澄み切った張り切った“気”は、

この1300年の間に築かれ、紡ぐられて来た

この女人禁制の行場を磨き、守り続けて来た人たちの叡智と、

この大自然の叡智が混ざり合い織り成された賜物だと思います。

ちょっと元気がない時、元気になりたい時、

そして更に元気になりたい時に、いつも行きたくなる場所が

この洞川なんです。

何度も行きたくなるような“気”がこの町には充満しています。

で、今日は「折りたたみ自転車」に乗って、

その大峰山の女人禁制の門(女人結界門)まで

行ってみることにしました。

今まで何十回も洞川には来ていますが、

ここに来たのは初めてです。

梅雨の合間の平日なので、誰も通りませんでした。

「誰も見てないので、ちょっと入ってみよか〜」

・・・という煩悩が一瞬も出てこない程、

ある種恐ろしい・・・爽やかで鮮烈な気で充満していました。

誰もいなくても、背筋がピン!と伸びました。

しばらくそこに立っていました。

「私は女性だから入れない」

「どうして私って、女性なんだろう?」

そんな疑問がふつふつと湧いてきました。

普段、私って女性なんやーって、殆ど意識した生活を

送ってませんので(ある種、問題発言・笑)、

ここに来ますと、まざまざと自分が女性なんだって

実感をさせて頂きました。

これはある種の『逆転の発想』ですが、

男性だからこそ、荒行をしなければならない・・・

女性だからこそ、そこまでの荒行をする必要がないと

先人達の智慧では、そうなっているんやと思います。

女性って、子供産んだり、あれこれと、男性よりも

日々、しんどいことってあるかと思います。

つまり、日々の修行が、女性の方が荒行だから、

女性はこのような山での荒行をする必要が

ないのかも知れませんね。

結界門の側に、右のような看板がありました。

私はこの中の『上求菩薩(じょうくぼさつ)』と

『下化衆生(げけしゅじょう)』という言葉に

釘付けになりました。

上には菩提(ぼだい)を求めると同時に、

下に向かっては衆生を教化(きょうけ)・救済(ぐさい)を施すことです。

私は、おかげさまで一応、四国歩き遍路行を終えましたが、

今でも『上求菩薩』の方は十二分に求め続けております。

ある種、クセ・習慣化しております。

しかしながら、『下化衆生』に関しては、

一部ではさせて頂き、大変感謝をされておりますが、

他の一部では、自身が修行等によって得たことを

“武器”のように扱い、その武器で人を救うために使うのではなく、

下の人を斬りつけて、傷つけている時があります。

私の持っている“武器という名前の正論”は、

誰からも反論出来ないものでありますが、

正論を武器のように振り回し、人・周りを攻撃し、

その人たちとの調和を乱せば、

それは結局正論ではなく、愚論になってしまいます。

この娑婆の世界においては、

正論を言っても、それを最後まで貫き通せない理由の一つが

このような状況なんだと思います。

最近、正しいことに気がついて、それを周りの人たちにお話ししても、

それが通らないことがあります。

みんなの感情(=煩悩)が、正しいことを歪め、見えなくさせているんです。

この民主主義という名前の『娑婆の世界』では、

多数決で物事を決めることが多いので、例えば、

正論者が49人で愚論者が51人だと、愚論が組織の総意となってしまいます。

(※しかも愚者は無意識のうちに劣等意識(不足不満という名前の罪)

を抱え込んでいる、つまり自身に自信がないので、

群れを作るのが好きなので、一致団結して固まって生息しています)

自分達は正論だと思い込んでいても、

客観的には愚論なのですから、物事がステキに成就する訳がありません。

成就しない理由を他人や時代などの「外部要因」のせいにして終わりで、

同じ失敗を繰り返して、やがてみんなで一緒に朽ちていきます。

私は、そんな人たちに対して、攻撃したり、そっと離れたりして

火の粉がかぶらないように、自己防衛に走っておりましたが、

この『下化衆生』という言葉&解説を見て、

「私は間違っていたヮ」・・・と猛省いたしました。

この看板に書かれておりますように、

「衆生(=誰)に対して仏の心で接する」・・・

これは決して“上から目線”ではありません。

慈愛に満ちた“施し”であります。

正論を常に直視しつつ、愚論をも優しく包み込む・・・そんな境地です。

きっとそんなことが出来れば、全ての対立がなくなり調和され、

和を描き、そして全てがステキに成就して行くのではないでしょうか。。。?

人・他人様がどうこうなんて、関係ありません。

私はこの『下化衆生』の実践を徹底しなければならないと

この“女人結界”の聖域で強く感じさせて頂きました。

私は女性なので、この山で修行は出来ませんが、

山を下りて、この『下化衆生』の修行も、

一から積んで参りたいと思います(%ニコ女%)(%音符1%)

ってことで、帰ってからの修行(目標)も

おかげさまで決まったことですし、

残りの時間で、おシゴトしまくりたいと思いま〜す(%笑う女%)(%王冠%)