夏へんろ 〜遍路ウォーキングへ〜

毎度です〜(%笑う女%)(%晴れ%)

なんだか夏色の空になってきましたね!

以前より、なんとな〜く予告してました、

「夏へんろ」にまた行くこと、決めました。

今回は、鯖大師本坊(別格霊場第4番札所)から、

室戸岬にある24番・最御崎寺までの

55キロを3日間かけて歩くことにしました(%ニヤ女%)(%星%)

鯖大師本坊は、よしこちゃん☆お気に入り宿坊の

ベスト5に入る場所で、また行きたいって思ってました。

住職さんのレベルの高さと、早朝の護摩焚きが

荘厳かつ清らか・・・とってもいい感じです。

全国各地から、住職さんを慕ってやって来られるようです。

昨年末、いろいろありましたが、おかげさまで無事、

歩きでの四国88ヵ所札所巡りが「結願(けちがん)」し、

そして今年3月・36歳の誕生日の日、高野山に行き、

私の自転車・車・徒歩での3周の遍路修行は終りました。

それ以降も、ありがたいことに四国にはご縁があり、

今年2月には、愛媛・宇和島市、4月には愛媛・西条市を

ほんの少しですが、遍路道をまた歩かせて頂きました。

この3周の遍路行で得た多くのこと(多くの捨てたこと)を忘れないために・・・

そして更に深化&進化&新化させるために私はこれからも、

ライフワークとして、この遍路道を「人生遍路道」の“裏街道”として、

歩き続けたいと考えています(%ニコ女%)(%音符1%)

最近忙しいし、夏へんろの過酷さを知っているだけに、

行くかどうかずっと悩んでいたのですが、

やっぱり・・・

「生きている限り、よりよく成りたい」

結局ただそれだけの、ほんとそんなシンプルな理由だけで、

“なにか”に突き動かされ、日々生きている私です。

だけど実際「行く」と決めると、

「やった〜、また行ける!歩ける〜(%笑う女%)(%ハート%)」って

心の底から歓びが湧き起こって来るのが、ほんと不思議な感覚です。

ほんと、イタイくらい怪しい36歳・独身女子ですよネ(%とんかち%)(%痛い女%) (%ニヤ女%)(笑)。

歩いている時は、ほんとしんどくて、

「何でこんなしんどい思いを、わざわざ時間・お金・エネルギー使って

せなアカンねん〜」って、いつも嘆いているんデスガ・・・(更に、笑)。

私が今月末歩く、国道55号線沿いルートは、

ひたすら右手は山、そして左手は太平洋になります。

この夏もきっと、サーファーやそれに伴う女性たちが

いっぱい集まって来ていると思います。

私が歩き遍路で一昨年、同じ道を歩いた時も夏で、

たくさんのサーファー&女性たちが、

人に・・・そして夏に恋するように戯れてはりました。

男女の恋愛の風景って、最も俗で、そして最も清らかな境地であります。

そんな風景を、「お遍路」というフィルターを通して、

客観的且つ冷静に観察することで、きっとまた何かが見えてくると思います。

36歳になった・・・四国を一周歩ききった私が、

また同じ道を通って、何か別のことを感じて気づく・・・

自分自身が、あれからどのように成長しているか。。。?

それが同じ道を、また歩くことの楽しみ“醍醐味”です。

・・・四国遍路道がなぜ1232キロあって、

その間にどうして88のお寺(別格の寺20、合計108)があるんかな?

実際歩いてみると、先人たちのその意図(真意)が分かりました。

以前、このブログに書かせていただきましたが、

結局のところ、自分自身の心『内観(見えない世界)』を、

自然豊かな四国の1232キロの道&88(108)のお寺という

『外観(見える世界)』を通して

させて頂いているんやなーということです。

その内観作業をするために、ちょうどいい距離&環境なんです。

人間にとって、よりよく生きるために、

最も必要な作業が『内観』だと思います。

つまり『己を知る』ということです。

自分自身を知らないと、自分以外の存在

(他人、国家、世界、環境、事象、時代など)も

的確に知ることが出来ません。

なぜなら、自分と自分以外の存在は『鏡の関係』で、

陰&陽・・・相関関係にあるからです。

だけど自分自身の心は、目に見えない上に、

あまりにも近い存在で、最も見る&理解するのが

難しいように出来ています。

難しい・分からないからこそ、

煩悩というものに惑わされ、過ちを犯し、

その間違った心・言動を直そうと、「苦難」というものがやって来ます。

だから「苦難」というものは、その人のわるい心・言動・習慣が

改善されるまで、来続けます。

逃げても、どんどん大きくなって大苦難となって追っかけてきます。

・・・だからきっと仏教は、外観(外部環境)で、

厳しい修行をすることによって、

内観の認識、成長、確立というたぐいのこと達成させようと

いうのが、「仏教の本髄の一つ」なのではないかなって思っています。

この修行(行)を通して、自身を知り、練磨し、確立していくというプロセスは、

この日本古来・・・自然発生的に生まれて来た「神道」には存在しない概念で、

そんな意味で、「神仏習合」で神道という芯に、

仏教という強烈な芯がくっき、補強されて、

私たち日本人の、精神的な根幹を担い続けているんやと思います。

・・・最近思うんですが、

昔に比べ、今は飢えや戦で死ぬ人は

この日本では殆どいなくなりました。

が、昔はたくさんおられた訳です。

そんな今よりもずっと苦難の時代に現れた

弘法大師・空海などの時代の先駆者(スーパースター)たちは、

現世にいる先駆者よりも遥かに強烈な器・パワー・・・

“叡智”を持った人だったと感じています。

時代の苦難が大きければ、大きいほど、

そんなスーパーな先駆者が登場するのが、

時代の性(さが)であります。

全てにおいて今が一番、先進的だなんて、

私はそれは絶対に違うと思います。

先進的なのは一部であり、全てではありません。

昔はあった大切なもの、だけど今は失ってしまった大切なもの・・・

けっこうあると思います。

それに私たちが、気づいていないだけでしょうね。

時代の谷間に隠れ埋もれている、大切なこと、

きっとたくさんあると私は思います。

現代を生きる私たちが、「非科学的だ」と避難している

日本古来の宗教(=宗教観&信仰心)の中にこそ、

究極の科学・・・科学(真理・原理原則に裏付けされた論理)が

存在すると、私は直感的に感じています。

つまり、私たち現代人が「阿呆」で、

先人達の叡智のレベルに達していない・・・

そんな側面もある、、、そう私は感じています。

ただ、昔の場合は、空海のようなスーパースター的存在

(ごくごく一部の人のみ)だけが、

現代人を遥かに超える叡智を持っていただけで、

その他大勢は、現代人よりかは、ちょっと阿呆だったかと思います(笑)。

なんやかんや言っても、私たち人間は

曲がりなりにも進化しているからです(・・・って私は信じたい。)。

・・・煩悩というものは108つあると仏教では言われています。

どうして108つなのか?

これって、意味があると思いましたので、

さっそくネットで調べてみました。

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除夜の鐘が108回つくのは煩悩の数とゆうのは知っておろう。
では108であるわけは何であろうか。これは仏教的な掛け算によるものなのだ。

まず、人は六つの対象(六境と言い、色、声、香、味、触、法、を表す)を理解する
感覚器を6つ持っていて(六根と言う、目、耳、鼻、舌、身、意、を表す)
それで、を理解するとされているのである。

その時の理解のしかたが3つ(三不同と言う、好、平、悪、を表す)
あと、理解の程度が2つ(染、浄) そして、その全てが三世(過去、現在、未来)
にわたって人を悩ますとされているのだ。

これが、6(六根)×3(三不同)×2(染、浄)×3(三世)=108になるわけだ。
ここで、六境は含まないのか?と思うだろうが六境はあくまで対象なので、含まないのだ。

実はもう一つの説もある。

六境には三不同以外に三受(楽、捨、苦)の受け方があり、
それらが三世にわたると言う説である。

ようするに6(六根)×《3(三不同)+3(三受)》×3(三世)=108である。

 煩悩の意味は通常、『一切の欲望や妄念』とされているが、
『心を汚し、惑わすもの』というのが本来の意味なのだ。

だから、子煩悩というのは俗語化しているが本来、悪い意味なのだ。
(某、都知事の《三国人》と逆では有るが同じ感じ)

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なるほど☆分かったようで、チ〜ットモ、ワカラン〜っ(%ショック女%)(%星%)(笑)

・・・ここからは私の100%勝手な「推論」です(笑)。

では、どうして四国は88ヵ所、お寺があり、

別格が20ヵ所(合計108)あるのでしょうか。。。?

私みたいに、88ヵ所のみお参りしている人もおられますし、

少数ですが別格も含めて108ヵ所お参りしてはる人もおられます。

一体この差はなんなんでしょう・・・?(笑)。

人間の煩悩が108つあって、そのうち88つ祓い切ることが、

「この世に存在する人間の合格点」だとホトケサマが決められた・・・

“この娑婆の世界はそうなっている”のではないでしょうか?

「88ヵ所以上・・・残り20ヵ所は、回りたい人&回れる人だけ

回ればいい」ということなのではないでしょうか(%ニコ女%)(%音符1%)

大学のテストでも、80点以上は「優」でしょ?(笑)

それ以下は「良」「可」「不可」。

仏教世界において「優」をつけられる人は、

108点満点中、88点以上な訳です。

この88点に、その人の“魂のレベル”が達するとどうなるのか。。。?

ホトケサマの代わりに・・・

ホトケサマの手となり足となって、87点以下の人たちを

“救う側に回る”のではないでしょうか。。。?

煩悩(つまり、煩悩から発せされる罪)が

深ければ、深いほど、自分自身でその泥沼から

抜け出すことが困難になります。

例えば、膝下まで泥沼にはまっている人は、

自力でも脱出できますが、

下半身全部、泥沼にはまってしまっている人は、

何人かが泥の外から引っ張ってあげないと、

そこから脱出できません。

同じ泥沼にはまっている人が、

同じく泥沼にはまっている人を助けることは出来ません。

助ける人は、泥沼にはまっていない必要があるのです。

自力でがんばって這い上がるか、

人に助けて貰うしかありません。

その泥沼にはまっていない人のことを

ホトケサマは88点以上の点数をつけられるのでは

ないでしょうか。。。?

で、88点〜107点の人は、それ以下の人を救うことにより、

と同時に、それらの人たちは、

“ホトケサマ”によって救われていき、108点(満点)に

近づいていくんだと思います。

108点に達したとき、仏教では『成仏』といいます。

「仏に成る」こんな難しいことはありません。

即身成仏(生きている間に成仏した人)は

釈迦しかいないと言われています。

それ以外の人は全員、死んでからしか成仏出来ません。

だけど「無理だ」と決めつけ、あきらめ、煩悩の成すがままに

この与えられた生命を無意味に燃やし続け、

自分の命や人の命を傷つけ続ける程、

この世に生を受けたことに対する“冒涜”ではないか・・・そう思っています。

「無理だ」と決めつけず、あきらめず、

日々、修行・・・精進し続け、一点でも108点に近づけるよう

曲りなりに努力し続けることが、

叡智を持った人間として生まれて来た者の、使命なのではないでしょうか。

無駄に命を浪費し続けている人たちを見ていると、

“諸行無常感”を感じざるを得ません。

死にたくなくても、死んで逝った人たち・・・

生まれて来たくても、生まれて来れなかった人たち・・・

そんな人たちの魂(想い)を感じる度に、空しくなります。

・・・こんな感じで、冴えてくると、

勝手にペラペラと言葉が出てきます。

私の手、言葉、頭脳じゃないようです(笑)。

目指せ☆88点、そして最終目標108点〜っ(%笑う女%)(%笑う女%)(%笑う女%)(%笑う女%)(%笑う女%)

『人生の晩年の楽しみ』として、

番外札所20ヵ寺も含め、108ヵ寺全部、

一気にお参りすることに決めました。

ますます、人生の目標が明確化し、

ますます、人生が楽しみになってきましたぁ〜(%ニコ女%)(%王冠%)

やっぱり「人生即遍路」。

私の人生と共にある、遍路行。

このご縁に感謝、感謝です。。。(%笑う女%)(%ハート%)