“欠けたところ”について

ふっ・・・と雑感です(%ニヤ女%)(%ハート%)(笑)。

人はなぜ欠点・短所“欠けたところ”があるのか。。。?

そんなことを考えてみました。

それはその“欠けたところ”が“苦難”を引き寄せて、

それを手掛かりに、人生という名前の“修業”を行い、

己自身(魂)を磨き高めてゆくため。

共に生きる(修業する)仲間と補い合うため。

協調・調和し、おのおのを、そして世の中を高めていくため。

自分自身の“よいところ”は、人を助ける・救うためにある。

性格(個性)に凸凹があるのは、助け合い補い合い、

引き出し合うため…調和 大きな和『大和』をみなで描くためにある。

日本初の政権の名前が『大和政権』だったのは、

私たちの先人たちが目指す個人&国家の在り方が

“大和”そのものだったという感じがします。

己自身を磨く“縦の行”(親祖先など、本と繋がる行)と、

仲間と『大和』を描く“横の行”(愛和)が、

人間がこの世で成すべき行である。

この国に神道しかなかった、太古の昔、

仏教が入って来た初期の修業スタイルは(女人禁制の大峰山の行など)、

“大自然(自分)対自分”の修業。

だけど仏教では、“自分対自分”だけでなく、

“人(自分以外の対象物)対自分”の修業も入って来る。

だから、四国遍路道には人里離れた山だけでなく、

里(人が住む街道)も含まれているのではないんかな…?

ふっとそんなことを思いつきました。

あと、先のことが分からない・見えないから

不安&不満という人が、結構おられます。

人間は分からないから努力する。

分からないから挑戦する。

分からないからワクワクする。

分からないこそ、幸せ。

分からないこそ、そこに“生きる価値”がある。

分からないことが不安や不満ではなく、分からないこそ、幸せ。

分からないこそ価値がある。

その分からない中に『人生そのもの』がある。

『分からないのではなく、

分からないように“出来ている”。

分からないことが、真理そのものである。』

最近、そんなことを感じています。

先のことが分かると人間は努力をしない、

そこに挑戦も改革、進化が存在しない。

分からないこそ修業をする。手探りで、もがき続ける。

分からないことが、実は究極の幸せなんだと思います。

『分からない』という幸せをかみしめ、

感謝しながら日々生きてますと、

自ずと人生が思った通りに拓いて来る…私はそう確信しています。

『分からない、人生修業に終わりがない、

ただひたすら前向きに続けていく』

それが“人生のプロフェッショナル”

なのではないでしょうか。。。?

なんだか、最近、そんなこと、思っています(%ニコ女%)(%星%)