四国遍路の風景の中におりますと、
神仏から人、食べ物まで・・・
あらゆる対象物に手を合わせている人の姿を良く見ます。
とりわけ、高齢者の方々が量質共に
多く手を合わせている・・・つまり“信仰”されています。
私はその姿を見ながらいつも「人は何故“信仰”するのか」
と考え続けて来ました。
その答えが何となく見えてきたので、
ここで文書化してみたいと思います。
生きているといろんな苦労や苦難がありますが、
人生において最大かつ唯一の苦難は「死」であります。
死ぬこと・・・自分自身の命が無くなることは、永遠の終わりであります。
「死にたくない」とどれだけ強く思っても・・・、
死なない為にどれだけお金や労力をつぎ込んでも、
死ななかった人間は誰一人おりません。
つまり、自分の意思ではどうすることも出来ない
『目には見えないけれど、絶対的で偉大なる力』によって
自分自身が死んで逝くということに、気づいていく訳です。
で、『その絶対的で偉大な力』に、自分自身の意識(心)を向け、
その偉大な力を借りて、自分自身の何らかの願い事などを成就したいがために、
人は、祈る・信仰をするのではないでしょうか?
手を合わせるという行為は、その偉大なる存在と、自分自身の心を合わせる・・・
という行為を具現化したものなんだと思います。
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・・・私たちの世代はまだまだ元気で、
少々無理しても、どってことありません。
私たちの世代が「死ぬ」なんて思ってなくて、
「生きていること」や「朝、目が覚めて起きること」が
当たり前だと信じ切っています。
が、いよいよ50代、60代・・・70代にでもなって来ますと、
どうすることも出来ない『老い(つまり死期)』というものを
痛烈に感じて来るようです。
しかも自分自身の体験だけでなく、親やパートナー、友達・・・
身の回りの大切な人たちがどんどん死んで逝きます。
老いを感じれば感じる程、
「死とは他人事ではない、自分自身にも確実に襲い掛かってくるものだ」
と実感して来る訳です。
だから高齢者の皆様を中心に、
自身の老いや死というものを感じることを通して、
『絶対的で偉大なる力』の存在に気づいていき、
その気づきが“信仰”というものに走らせるのではないか・・・?
そんな風に思えて来ました。
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神仏をはじめ、自分自身以外の
あらゆる対象物に手を合わせる・・・
“信仰”することによって、
「おかげさま(お蔭様)の精神」に目覚め、
そして深められて行くのだとも思います。
※ここで言う“信仰”とは特定の宗教団体に入信することではありません。
『陰陽の理論』で言いますと、『陽』が自分自身。
『陰』が自分以外の対象物全部となります。
自分自身だけの力で、この世の中を
の〜の〜と“生きている”のではなくて、
自分自身以外の人や物、環境のお陰・・・はたまた、
自分の両親をはじめご先祖様の“見えない力のお蔭”で、
“生かされている”という、自分以外の対象物に対しての
『感謝の気持ち』を磨き高めることが
“信仰”における、一つの重要なポイントのような気がしています。
その『感謝』が深め高められる程、現人生での幸福度が向上すると同時に、
『死ぬ』という、人間(生物)であれば、一度は必ず経験する一大苦難を
だんだんと受け入れれるようになって来るんだと思います。
つまり、本来の“信仰“とは、
今生きている&生かされている意味や幸福のあり方を探り(現在の自分の幸福)、
死んで逝くことを受け入れ、自分が逝った後の幸せを願い(未来。子孫繁栄)、
と同時に、自分がこの世に生まれて来たことに対して感謝をする(過去。先祖供養)
ものなんだと、何となく思えて来ました。
今を考え、過去を思い、そして未来に幸せを託して、死んで逝く・・・。
我々の日本の先人達は、そのような“信仰”を、
精神的な根幹の一つとして大切に生きて、そして逝って来た訳です。
何とも言えない深い感動があります。。。
そんな“信仰”は、時の権力者や宗教者によって、歪められ利用されつつも、
その根本までは腐ることはなく、脈々と今に継承されています。
弘法大師・空海は、1200年前に「人間の真理」というものを悟ったからこそ、
未だに時代のスーパースターとして君臨し続け、
空海の道が全国であちらこちらに残っています。
そんな四国遍路の道を今、歩かせて頂いていることに、
深い感謝の念を感じています。
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もう一つ、八尾の喫茶店で、上記に関連する話を聞きました。
それは「ボランティアとは誰の為にするのか?」ということです。
その答えは、「自分のため」であります。
と同時に「誰かのため」でもあります。
まずは自分、と同時に人様のためにもなる・・・という概念です。
(これって、「何のために日々がんばって生きているのか?」も同じだと思います)
“信仰”も同じです。
自分の幸福を願うことが、つまり先祖供養にもあり、子孫繁栄にもなり、
今一緒に生きている仲間のためにもなっています。
反対のことを言いますと、
誰かの幸福のために祈ることが、同時に、
自分自身の幸福をも祈っていることにもなります。
この人間の法則は『全一統体の原理』といいます。
また別の角度から言いますと
『因果応報』(全ての出来事は必ず原因と結果がある)
ということでしょうか。
自分が誰かのためにがんばれば、誰かが自分のためにがんばってくれます。
自分が誰かを騙したら、自分も誰かに騙されます。
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それは何故か?
それは、自分も自分以外の対象物全ては、
見えないところで繋がっているからです。
この絶対的な法則は、目で見えるものしか「在る」と認めない、
唯物主義者には、全く理解出来ない境地(真理)であります。
この真理を掴んでいるのと、掴んでいないのとでは、
人生の幸福度に雲泥の差が出て来ます。
私は、特定の人の人生に対してあれこれ言うつもりはありませんので、
何も言いませんが、
“信仰”はすべきだと思っています。
すればする程、幸福満足度が向上し、
そして世の中で起こり続けている表面上・見た目の現象だけで、
一喜一憂しなくなります。
つまり、つまらないことでぶれなくなり、
己の志(修行)を磨き高めることに専念出来るということです。
人生において必要な回り道は喜んですべきですが、
無駄な回り道はすべきではないです。
無駄な回り道ばかりで路頭に迷っている人は、
本人たちが気づいていないだけに、哀れです。
私も、そのことを常に肝に銘じたいと思っています。
祗園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
娑羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず
唯春の夜の夢のごとし
たけき者も遂にはほろびぬ
偏に風の前の塵に同じ
(平家物語 冒頭部分)
ほんと、いろんなことを日々、感じ、
気づかせていただいております(ー人ー)☆
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