日々一所懸命やっている。頑張っている・・・
そんな人を「イケテない」「デキテない」と
批判するのは、どうだろうか?・・・と思うようになりました。
私の場合、今一緒に生きている同世代の人たりを見渡せば、
物事の道理が見えて来た方で、
見間違いによる失敗は比較的少ないようですが、
物事の摂理(正論)という武器で、人を勝手に裁き、
判断している『責め心』がある人間だと、自分自身を分析しています。
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仏教用語で、物事の道理が分からない罪を『世執』、
物事の道理を知る人間が知らない人間を勝手に裁く罪を
『法執』と言うそうです。
以上の2つの執拗な心の罪を完全に消し、
全て(ありのまま)を認め、受け入れ、
許し切ることが、修業の最終段階であり、
幸福満足度に大きく関わっているようです。
そんな『法執』を越える慈愛の境地に
なかなか行けない、私です。
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そんな境地に行く、最初のステップは、
『自分自身のありのままを認め、受け入れ、許し切る』
ことだと、だんだん見えて来ました。
『過信』ではなく『自信』。
…自分自身の無限の可能性を信じ、
希望を持って未来に向かって精進してゆく。
そんな自分自身の生き様を素直に直視し、
確実に与えられた人生を歩んでいる人は、
人を批判する時間(心の隙間)はないと思います。
ただ、こうした方がその人の人生がよりよくなる場合は、
慈愛の精神を持って、
アドバイスやサポートをして差し上げればいいかと思います。
そんなことがだんだん分かって来たので、
そのような人たちを意図的に避けるのはやめて、
時間の都合がつくかぎり、喜んで関わって参りたいと
思えるようになりました。
相手がどのようなレベルがあれ・・・人間であれ、
どんな人でも好きになって、全てを受け入れて
協調し合える、調和の取れた自分自身を目指したいと思います。
それがきっと、自分自身の成長にも繋がると
今はそう、確信しています。
・・・自分にとってご縁のない人は、
私の前からいずれ去っていくものですし、
ご縁のある人は、ずっと私の周りにおられるのですから・・・。
全ては『オマカセ』の境地です。
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