(写真は、奈良県桜井市の大神神社です)
…と考えてみた時に、
何を真っ先に思いつくでしょうか。。。?(%ニコ女%)(%星%)
ここを的確に把握していないと、
自分自身やその周りの人の人生が
ずれて堕落して来るような気が最近しています。
その答えは万人共通で 『 命 』 です。
自分自身の命、他人様の命、物や地球全体の命。
その上にある・必要なのが『健康』です。
言い変えると『正しい・健全な状態』ということでしょうか。。。
つまり、命があり健康な心身があるからこそ、
よりよい金儲け…経営や人生が歩める訳です。
命がないと全てが『無』となります。
煩悩(小我)・目先の損得や
見える事象ばかりに心が囚われていると、
物事(万象)の全て(真理)が見えず、
間違った判断・選択をし、人生が堕落していきます。
その堕落のスピードは緩やかな時もありますし、
一気に堕ちる場合もあります。
万象には必ず『兆候・きざし』というものがあります。
例えば、心筋梗塞等で即死された方は、
日頃暴飲暴食等の非健康的な生活習慣が
因果としてあったりするかと思われます。
物事は全て『因果応報』…
全ての事象には原因があり、
それに沿った結果が出るということです。
自分で蒔いた種(原因)が、自分に還って来る時もあれば、
時空を越え「家系」という流れに乗り、下流の「子孫」に行く時もあるようで、
その采配は人間の思惟を越えた、いわゆる“神仏の領域”になります。
善い結果をもたらす因果を『徳』、悪い因果を『罪』と言います。
日々『徳』という善行をしていますと、
『得』という見える形…御利益として還って来て、
逆に『罪』を積んでいると、『苦難(災い)』
という形で私たちに還って来るようです。
苦難には大きく分けて2種類あり、
上記のような罪深い人を善い方向に戻す為のものと、
より善い人生を歩む為…その人を
より成長・進化させる為に起こるものがあります。
私の人生の一つの大きなテーマとして、
「いかに後者の苦難を、自らの力で起こし、喜んで受けていくか?」
というものがあります。
前者の苦難は停滞・退化を食い止める…
マイナスからゼロの状態に戻すものであり、
後者の苦難は成長・進化に向かう、
プラスの方向へ導くものであります。
だからますます私は、四国遍路などの
精神修業に心身が入って行く訳です(笑)。
私の尊敬する60代の経営者の先輩が
「自分のお墓の『墓標』に書く言葉を決めている」と、
その内容を教えて下さいました。
まだまだあの世に呼ばれる気配のない
チョー☆元気な方なのですが(笑)、
その真意は…
『墓標に書く言葉=自分自身の生き様を明確化させて、
その通りに真っ直ぐ歩いて逝く』ということです。
死ぬということを討議すると「縁起でもない!」と
恐れ一蹴されそうですが、
生があるから死がある…生と死は一対…
『生死』はコインの裏表のように一つのものです。
だから死を考えることは、生を考えることであり、
死について考えないことは生がぼやけ、
よりよく生きることから逃げていることになります。
人間にとって『生老病死(人生において免れない四つの苦悩)』は
生きている限り、絶対的且つ中心的な課題であり、
「生きていることが当たり前、命があるのが当然…と、
自分や人様の命や心身の健康を粗末&蔑ろにする我が儘・傲慢さが、
全てのマイナス苦難の元(元凶)であることは間違いのない事実です。
つまりそんな心境は『感謝(お蔭様の心)』の対極にあります。
…ってことで私も自身のお墓に書く文字を考えてみました↓
『人生遍路に捧げた命、ここに入定(にゅうじょう)する』。
ちなみにお墓の形(大きさ)は、幕末の志士・武市半平太と
同じくらいがいいと思っています(→)。
四国遍路道・旧街道沿いの里山にひっそりとあります。
質実剛健で自然に調和したさりげない感じが好きです。
やはりお墓にもその人の『イキザマ』が現れて来るようです。
…話し戻って「入定」とは、
高野山・奥之院におられる、弘法大師空海のに使われる言葉で、
「空海は死んでもないし眠ってもいない…
今でも生きていて、奥之院(御廟)で修業しながら、
私たちを教え導き続けている」
という概念を元に作られた言葉です。
人間の死は2回訪れると言われています。
一回目は寿命が来る、生物学的な死。
二回目の死とは、今生きている人全員がその人のことを忘れ去った時で、
精神的な死・本当に死んだ瞬間となります。
『本当の人生の評価や価値』とは、
一回目の死から二回目の死の間に明確に現れるのかも知れません。
「アイツが死んで清々した!」と葬式の時に言われたり、
誰かに見取られることもなく自宅で孤独死か自殺…
はたまた病院で死んでも、ゴミの如く
病院の霊安室から焼場まで『直葬(送)』される最期の人生程、
悲惨で哀れなものはありません。
空海は一回目の死は約1200年前に訪れた訳ですが、
二回目の死はまだです。
今でも高野山や四国を中心に「お大師さん信仰」は根強いからです。
だから『空海は死んだんだけど“死んでいない”』のです。
従って私は、自身の一回目の死後までを見据え、
お大師さん(弘法大師空海)を“心の師匠”とし、
そのような“入定人生”を歩みたいと思う次第です(%笑う女%)(%晴れ%)