小豆島から去った後のこと

7月29日(火)朝。

打ち残していた2ヵ所を打ち、大部港前の喫茶店で、

フェリーが来るまで2時間程のんびりしていました。

ぼんやり納経帳を眺めてました。

ちゃんと全部、納経が完了しています。

札所の番号もバラバラだし、お寺でしかご朱印を押して頂けないし、

時々自分でご朱印を押すこともあり、

抜けや漏れがないか心配でした(^^;)。

小豆島遍路も四国遍路同様、

納経帳には高野山・奥の院の納経のページがあり、

最後高野山に行くルールがあるようです。

高野山は近いのでまた今後の楽しみとして、

いつかのんび〜り行きたいと思います(^^)。

それから大阪に帰ってからの

スケジューリングをせっせとしました。

だんだんと『現実(日常生活)』に戻らされて来ました(-.-;)笑。

そうこうしているうちに、

岡山・日生(ひなせ)行きのフェリーが来ました。

そして船上の人となりました。

フェリーに乗った瞬間、

なんか「ぐっ」と来るものがあり…

そしてフェリーの後ろから、

小さくなってゆく島を眺めていたら、何故か号泣。。。

「終わった…」と思いました。

うれしい訳でもなく、かなしい訳でもなく…。

表面上の感情というものを越えた『何か』が、

琴線にふれた感じです。

これぞ『万感の想い』というやつやなと思いました。

曲がりなりにも、

一つの大きな修業(ミッション)をやり遂げたという、

人生の一つの大きな区切り・節目を終えた瞬間を感じました。

四国4周に、小豆島1周…。

私にとってこれが一つの『区切り』です。

29才から約8年間、本当によくやって来ました。

自分が選択して、お遍路さんしているのに、

どこかで「誰か・何かの意図で歩かされている」という感覚があり、

それが少しもどかしくもあり、ある種の心地よさがありました。

だから、本当にもうアカンと思った時も、

必ず助けてくれる人が現れたり、困難を脱却出来るアイデアが浮かんだりして、

数々の困難を切り抜けてくることが出来、

そんな出来事全てが、自分自身の生きる糧になっています。

船上では、やり切った!という、清々しい達成感があり、

私の遍路での苦労や苦痛が全部大空に、

すーっと消えていくのが見えました。

「これぞ、『昇華』というものか」と分かりました。

これからまた新たなるレベルの修業を見つけて、

40代以降も、しっかりこなして生きてゆきたいと思います。

私が島を眺めている横に、子供とその父親が来たので、

こんどは前側の景色が見える場所に移動しました。

だんだん本州が近づいています。

今の私の心境はは瀬戸内海のように心穏やかで、

今の真夏の季節のように熱く燃え、

そして頭上の大空のように『前途洋々』。

人生、なんだって叶うという確信を抱くようになりました。

日生から電車に乗り、兵庫県赤穂市にある

「坂越(さこし)駅」で、途中下車しました。

駅から徒歩15分くらいのところに、

昔の町並みを残した地区があります。

この坂越…実は、私の母方の「ひいひいおばあさん」の

出身の村だということが、

たまたま見つけた戸籍謄本で分かりました。

つまり私の16分の1のルーツ(DNA)は

『赤穂郡坂越村』だということです。

この坂越は、かつて海路が主流だった時代、

瀬戸内海と千種川が出会う交通の要所で貿易で

大繁栄した村だったようです。

今はのどかな漁村になっています。

その町の神社を見ると様々な祠があり、

ありとあらゆる神様が祭られていて、

かつての繁栄ぶりが偲ばれます。

その町を知るために「坂越まち並み館」に

行きたかったのですが、

休館日でしたので、涼みたかったので喫茶店に入りました。

喫茶店のおかみさんに

「実は私の遠い先祖は坂越出なんです〜(^^)」

と言いました。

更に「今『旧坂越浦会所』(そこの休館日)で開催中の展覧会…

切絵作家の作者・佐方(さほう)直陽さんの、

その『佐方』が、私のひいひいばあちゃんの旧姓なんです」と言いますと、

「あら〜そーなの〜(^O^)!」って、めちゃくちゃヒートアップされました(笑)。

その会話を聞いていた、たまたま隣のテーブルにおられた

おじさんが話に入って来られました。

どうやら「佐方」という家は今、二軒あるそうです。

どちらかもしくは両方、私と血が繋がっているのかも知れません。

ただ、戸籍謄本は「赤穂郡坂越村」までしか書いておらず、

(なんせ、ひいひいおばあちゃんの時代って、明治中期ですしね^^;)

番地まで分からないので、判定はひいひいばあちゃんと、

ひいひいひいじいちゃんのフルネームが頼りです。

そのおじさん、ナント☆地元まちづくり組織

「坂越まち並みを創る会」の会長さんらしく…

「キミの遠い親戚かも知れない、佐方さんの切り絵のハガキセット、

送ってあげるから、住所教えて〜」と言われました。

坂越を愛する、笑顔あふれる本当にステキなおじさんでした。

また改めて坂越に行きたいなと思います。

遠くて近いご先祖さまが引き寄せて下さった

本当にステキなご縁でした(^0^)!!

坂越駅に戻り、播州赤穂駅が始発の

JR東海道本線の『新快速』に乗り、一気に大阪まで戻って来ました。

坂越〜姫路あたりの新快速は、正に『田舎のローカル電車』という感じで、

かなり空いての〜んびりしていました。

ガタンゴトンと電車に揺られ…うとうと…

っていうか爆睡☆してました(笑)。

前に座ってたオッサン(笑)が、西日が眩しいからと、

私の頭の上にあった日よけを激しく下ろした音で、

ハッ☆と目が覚めると、神戸駅。。。

いつの間にか、

美しい日本のふるさとの風景が映る

車窓ののんびりした電車が、

帰りのラッシュ時の

「いつものグレーで忙しない風景」になっていました。

坂越や小豆島での出来事は全部…夢!?

そう、真剣にそう思ってしまいました(笑)。

同じ電車でも、あんなに雰囲気がガラッと変わるとは…

新鮮な驚きがあり、浦島太郎状態です(笑)!

ほんと、正に夢のような8日間でした…。

次に思ったこと…それは

「みんなちゃんと生きてるやん」ということです。

私は、小豆島遍路や坂越での時間は、

過去生きていた人のことをあれこれ見つめることにより、

『過去』に生きていました。

遍路=供養であり、自分自身の過去や先祖の供養

(※供養とは、いいこともわるいことも『ありのまま』を受け入れ、

供養する対象者と心を合わせ、感謝することなんだと思います。

具体的な行為として日本では手を合わせます…祈ります)

…自分が生きること・死ぬこと、神仏の真意…

そんなことに向き合っていました。

だから、いつもの風景に戻って来た瞬間、

「ここにいる人は全員死んでいない。墓碑や位牌に化けていない。

ちゃんと人間の形に見える。

ここには死んだ人は一人もいない」と思いました。

その次に思ったことは

「みんなちゃんと生きてるんやから、これから先、

ナンボでも好きなように出来る。

希望があれば、希望通りになる。

死んだ人間・生きていない人間は、何も出来ないし、

希望も何も持つことも出来ない。

生きるということ…命があることは、

なんと素晴らしいことなんやろう!」と

ミョ〜に感動しました。

生きていることを当たり前と思っているから傲慢さ我儘が出て、

不足不満の不毛の境地(不幸)に堕ちていくのが、人間なのではないでしょうか?

だけど、なんらかの理由で、今生きていることが「当たり前でない」と悟った時、

自分の一見不幸な境遇も幸福も全部ひっくるめて、「感謝(喜び・歓喜)」に変わり、

幸福感へと繋がってゆくんだと思います。

私はここで何を申したいかと言いますと、

幸せ(幸福感)とは、こんな感じで、自分の気持ち・心持ち一つだということです。

自分が幸せだと思えば、幸せであり、

自分が不幸だと思えば不幸なんだということです。

誰かに、幸不幸を決められるという次元のものでは

本来ないものです。

だから、比べるという行為は、本来意味を成さないものであります。

比べることは、結局人間を不幸に陥れるのです。

ま、娑婆の世界は対立の世界なので、

どうしても対比という行為がつきまとってきます。

対立や対比という苦難の中に人間修行の真髄があり、

人生の醍醐味があるのは事実です。

そのあたりの、真実をしっかり把握した上で、

割り切って流されずに、対立対比の娑婆の世界で

たくましくしなやかに生きて逝きたいものです。

更なる修行後の『変化』として、

目の前に広がる風景や、

目をつぶってあれこれ想像した時、脳裏に映る映像が、

ブラウン管テレビのアナログ放送画面から

一気に最新のデジタル液晶モニターテレビのように、

一気にクリアーに見えるようになり・・・

また音楽やあらゆる音が、生オーケストラのように、

めちゃくちゃリアルに深く、小さい音まで鮮明に

聞こえるようになっていました。

感性がぐっと鋭く冴えたようです。すごい。。。

坂越から八尾に帰らず、途中、ある夕食会に参加させて頂きました。

そこにお1人、『ものすごい方』がおられ、

私はそのお方にお会いしたいと思い、参加させて頂きました。

その方は、先祖代々神道系(シャーマン)の家系で、

凡人が見えない姿、聞こえない声が聞こえる、清浄な方です。

普段はコンサルタント系の会社の経営者なのですが、

人助け&自分磨きのために、さまよう人たちのアドバイザーを

されておられます。

私はその純粋無垢なおじさまのお姿を尊敬しております。

そのおじさまは、一人ひとり、

「今、何か困ったこととか、聞いてみたいことはありますか?」と

聞いて回られます。

そのお悩みの解決方法は見事&爽快であり、

一見ガンコな経営者のおじさん達が、最後は涙を流して、

反省&改善されたりされます。すごい。。。

その各人のアドバイスの中で、印象に残った言葉を

いくつかご紹介させていただきます。まず・・・

「誰かに『あてにしない、期待しない、頼らない』生き方をする」

これは深いです。

これをするから、人間は不足不満の泥沼人間関係を

自ら作って堕ちて逝くというのです。

夫婦でも親子でも別の人間(個体)であります。

だから「分かり合い続けることが出来る」ということは

錯覚(カンチガイ)であり妄想だということです。

(一瞬、分かり合うことは可能かと思いますが)

集まった方々のかなりの人が夫婦関係に

悩んでおられるようでした。

「いつかは分かり合える夫婦になるだろう」は

絶対にありえないと、バッサリ斬っておられました。

見事な斬り裁きでした(笑)。

そんな妄想をさっさと捨てて、

ただひたすら相手の為に尽くせ!とズバっ!と

アドバイスされていました。

「夫婦だから、分かり合えて当り前」

「親子だから、分かり合えて当り前」は妄想です。

全ての不幸の入口は、感謝を忘れた「当たり前」から始まります。

どうやら神は、元々合わない者同士を側に配置し、

対立しまくらせて、火花をバチバチ☆散らす勢いで、

『修行』をさせて、双方がぶつかりあって

人間的に丸くなり合う・・・という采配を行っているようです。

その天の采配は絶妙で、見事にムダなく適切に

キャスティング&セッティングされているとのことです。

人間からすれば、「この人との結婚は間違っていた」と思っても、

天からすれば、それは正解だということです。

結婚して、何事もなく幸せな終末を二人で過ごす・・・

そんなことは妄想です。

人生の真の醍醐味は失敗や葛藤、悩み苦しみの中のみに存在しています。

失敗や苦しみがあるからこそ・・・それが深ければ深い程、

幸福感が比例して高まっていきます。

「嫌だ、しんどい」と苦しみから逃げるということは、

幸福感も堕ちて行くということを、しっかりと肝に銘じてください。

また、

「誰かに、あてにしない、期待しない、頼らない生き方をする」

そんなことが出来るようになると、

相手から放出される、悪いエネルギー(邪気や病気)を

吸うことが無くなります。

これらは「欲しい、欲しい」という受身の姿勢だからです。

受身がなくなると、能動(発心)のみになります。

自分自身が気(心、言動)を相手に投げるだけになりますので、

自分から放出される気が邪気や病気というマイナスでなく、

プラスの気であれば、その人の周り&自分自身が飛躍的に好転して来ます。

結局のところ、人間とは「気(エネルギー)の動物」であり、

なんやかんや言っても、見えないもの・見えない世界に

支配されています。

そのおじさま曰く

「今、人間が生きる3次元と、

宇宙を采配するエネルギーの発心元である4次元とを

エネルギーで繋ぐのが、本来の人間の役割である」と

キッパリ断言されておられました。深い。。。

あと、

「誰かのために、何かをするという行為は大事。

だけど、その奥にある感情が根本的に大事!

想いが大事!

行動が同じでも、感情が違ったらダメ!

本当に相手のことを思って、感謝してやるべき」と

バッサリ斬っておられました。

例えば、誰かから

「奥さんにマッサージ(スキンシップ)してあげたら、

奥さんとの関係は改善しますよ」とアドバイスを受けた旦那さんがいます。

旦那さんは早速、奥さんにマッサージをしてあげます。

すると奥さんが言ったそうです。

「あなた、もういいわよ、感情が入っていない!」と(笑)。

さすが、感性豊かな女性。。。恐るべし。

直感的に分かるんですよね。

「関係改善したいから仕方がなく&イライヤやる」という

マイナスの気が、奥さんに伝わっている訳です。

そもそも「関係改善したい」という『見返り』を求めている自体

アウトだということです。

(そもそも貴方の日常の行いが悪いから、関係が悪いのです)

見返りを求める善行は、徳積みどころか、罪になります。

見返りを求めれば求める程、罪が積まれ、ますます不幸に堕ちていきます。

「いつも家事してくれて、子育てしてくれてありがとう」という

感謝の気持ちだけで、ただひたすら無心になって

マッサージをすれば、奥さんは、

「気持ちいいわ〜、もっとやって〜、ありがとう!」と

心地よくなって来るとのことです。

「俺のおかげで、おまえたちは食っていけている」なんて

最悪です。傲慢もいいところです。邪気に満ち、

奥様や子供がその邪気にやられ、病気します。

もしくは自分が病気し、地獄に堕ちます。

・・・で、いよいよ私の番が回って来ました(^0^)♪

さて、私はおじさまにナント言われるのか・・・

おじさま曰く・・・

「僕は神道系で、あなたは仏教系(密教、役行者系)がついています。

完全に守られています。が、僕は神道系なので、

あなたの(後ろについている魂の)声が聞こえません」

・・・ってオイ(^^;)って感じっ(笑)。

ってことで、推測(?)であれこれアドバイスいただきました。

「どうして私が遍路修行をしているのか?」

その真の理由を教えていただきました。

(※信じるも信じないも自由です)

私は今まで、その理由が一番気になっていました。

他にすること、たくさんあるのに、何故これにこだわり続けて来たのか?

自分でやっていても、理解不能でした。

ただ、やると気持ちいいし、いいこと起こるし、人生でぶれないし、

精神的にどんどん太くしなやかになっていくし、

物事が観得て来るし、、、だからやっているんだと

軽く思っていました。

そのおじさま曰く(そのおじさまのそうなんだそうですが)

「あなたのご先祖さまで(恐らくかなり遠い祖先で、念が強烈に強い魂)が、

何らかの理由で、この世で遣り残したことが

この『遍路修行』だったのではないでしょうか?」

なるほど。。。深い、深すぎる。。。

なぜ、その説に納得したかと言いますと、

どうも『歩かされている』という感覚が

常にどこかに在ったからです。

だけど、今回の遍路で私はとりあえず、

「これで終わり」と納得しました。

そのことに関しては、そのおじさま曰く・・・

「その先祖が、達したいレベルまで達したんでしょう。

これは『ゴール』ではありませんよ。『スタート』です。

これから益々応援されますよ〜!」

この『ゴール』ではなく、『スタート』という

言葉をめちゃくちゃ強調されました。

にしても、自分が小豆島を去る時に感覚的に思ったことと、

自分のご先祖さま云々の話の辻褄が合ったことが、

とっても嬉しかったです。

明日から8月に入ります。

また新しい修行の場・・・出合いを求めて、更に精進して参ります。

ほんと、最後の最後まで、いい出合いでした。

ほんと、絶妙なタイミングでした。。。

ありがとうございました。