「さ迷う魂」

ある日の23時半。大阪ナンバの通称

「ひっかけ橋」を歩いてみました。

ここは昼間とはまた違う“人種のルツボ”と化しています。

居酒屋さんから怪しげなお誘いまでいろんな

『引っ掛ける人』がいる。

当然、『引っ掛けられる人』も存在します。

私のような人間は、

あらゆる理由から引っ掛けられることはないです(笑)。

橋の上で起こっていることを静かに観察しておりますと、

引っ掛ける人間は何等かの理由

(100%自分本位。カネか性欲の充足)で、

引っ掛けたい人間で且つ引っ掛けられる

可能性(スキ)のある人にしか寄っていかない。

成程☆引っ掛ける人の動機や動きは

複雑のようでシンプルです(笑)。

一方引っ掛かる人を観ますと、

刺激や快感…遊びやゲーム感覚で、

意図的に引っ掛かりに来ている感じがいたします。

引っ掛ける人と引っ掛けられる人の共通点を探りますと、

『同じレベルのさ迷う魂の持ち主』だということです。

ロジカルに表現しますと、

『生きる目的を失い、その場その場の快楽に溺れる人間たち』です。

人間が生まれ、成長する過程でまず形成されるのが、

自分自身の心身の充足(快楽)を満たす方法です

(動物的本能“ヒト”の充足)。

つまり「自分はこうしたい」という主観的観念であります。

物心ついて来たあたりからだんだんと、

人間的本能といいますか…

集団で生きてゆくための人間的術を身につけていきます。

今までの動物的本能だけであれば

「私は全部食べたいから、ケーキを全部食べた」。

この段階の人間は

「全部食べたいけど、5人いるから5分の1だけ食べた」になります。

つまり、自分自身の願望や価値観(主観)と、

自分以外の人や事象・環境からの

視点・願望や価値観(客観)双方の擦り合わせが出来るようになって来て、

健やかな人間関係を構築し、

快適な人間生活を営む“人”に成って来ます。

…話し戻して、夜のひっかけ橋で引っ掛け・引っ掛けられる人たちは

“人”でなく“ヒト”で、

見た目は成熟した(=生殖能力のある)大人の身体を持ち、

中身は未成熟な…動物的本能しか持たない(覚醒していない)

“ヒト”であります。

前も少し書きましたが、

“人間”と一言で書いても、人間になり切れていないヒト

(イヌやサル、タヌキにキツネ…更に、

カエルやヘビなどの爬虫類まで存在します。

中身がヒト以下の人間は、

その日その時の自己快楽しか考えていないので、

近寄らないか、近寄らせないか…

どちらかを意識的にされた方がいいと思います。

(つまり、他人の幸福も、未来の繁栄も考えていないということです)

ついでですので・・・

動物的本能(主観)と人間的本能(客観)を

体得した人間の次の魂のレベルは、

動物でも人間でもない…

所謂神仏の領域を目指す『神性の体得』を目指すレベルであり、

それが達成するのが「悟り」という境地なのではないでしょうか。

物(カネ)が欲しい、人から賞賛されたい、オンナ(異性)が欲しい・・・

娑婆の世界には

「くれくれ病(※よしこちゃんが勝手に命名・笑)」が蔓延っています。

幸福感の欠如が、その人その人の一番劣等感を感じているところを刺激し、

それが物欲や名誉欲や性欲などのマイナス(自己中心的・自己快楽的)な

欲求を生み、その解消に向かわせているようです。

(そんなマイナスな欲求は一瞬解消されてもまた湧いてきます。

それは何故か?精神の根本にある劣等感が消えないからです。

不幸のアリ地獄状態で、哀れです。)

面白いもので、そのような病気にかかっている人を観察しておりますと、

例えば、自分が性欲がベースの

マイナスのエネルギーと化した「くれくれ病」にかかってますと、

自分以外の周りの人間も「なんやかんや言っても、みんな異性を求めている」と

カンチガイしているようです。

やはり、煩悩(マイナスのエネルギー)は、人間の正しい見方や判断を

歪めているようで、

『自分がそうだから、みんなそうだ。みんな嘘つきだ』と主張し、

そうじゃない人を「おかしい人だ」と批判の目で見ているようです。

(私から観ますと、そんなアナタがおかしいんやって感じです・笑)

人それぞれに生き様・使命役割があり、

それに沿って、欲や苦難、修行の量や質も全て異なってきます。

その人の最も大きな快楽(幸福感)が

下半身にあるか、口(食べ物)にあるのか、

カネ(買い物やビジネス)にあるのか等・・・人それぞれ違います。

私の場合、はっきり申しまして、

必要最小限の衣食住への執着(本能)や生殖的本能は必要かと

左脳(理屈)にて認識はしておりますが、

それはあくまで『生き続けるための手段・道具』であり、

その充足(自己快楽)に走り、目的化してしまい、

自分自身の『道』を外すのは、人生において『本末転倒』であり、

重い罪であり、絶対に許されるものではないと認識しております。

従って、そのようなことはいたしません。

一方、人様がそのような罪を犯し続けていても、

私がどうこう説教するというものでもありません。

なぜなら、その罪からやって来る苦難は、

その人を磨き高める『修行の機会』であるからで、

その人の人生は、その人のものなので、

私は関係がないし、関わる必要もないからです。

(ただ、その人に相談をされれば、若輩ながら相談に乗らせて頂きます)

そう明確に認識出来るようになったのは、

過酷な遍路修行で掴んだ真理(確信・核心)のおかげであります。

例え、誰が何と言おうとも、人間は不完全な存在であり、

正しくもあり、間違ってもいます。(当然、私自身もです)

「Aさんから見れば正論、Bさんから見れば愚論」なんて、

本来真理ではなく、ただの『屁理屈』であります。

『我儘』の形が変わったものであります。

私はそんなものに惑わされもないし、騙されもしないし、

てきとーに笑って、さらっと流し、忘却するのみであります。

ですので、私にとって正論とは、全ての人や神仏的立場(大局的に見て)

みんなが全会一致で「正論だ」と判断することのみであります。

従って私の人生にとって、合一(受け入れる)すべきものは、

「神仏」に代表されるような、絶対的真理との合一が

最も重要なことであり、異性や物カネ、名誉とか

娑婆の世界で生きる上で必要な“便利道具”ではありません。

ここではっきりと申し上げておきます。

(ただ、結婚でもするご縁があった場合は、

パートナーとの心の合一修行も追加されるかと思われますが)

あまりにも「偽物の正論」が多いので、

正直、うんざりしていますが、

『うんざり』というマイナス感情をも超剋すべく、

私自身もっと修行をしなければならないと痛感しています(涙)。

・・・また一方で、真の奉仕が出来る(愛を与えられる)人間は、

己自身が愛に満たされ、

ある程度心身が充足していなければ、成されるものではありません。

人間が生まれた瞬間…

赤ちゃんは正に『天使』のようで、

赤ちゃんの笑みはみんなを慈愛で満たします。

赤ちゃんの心は生命・人生の歓喜で満ち、

それが慈愛の光となって私たちの心の慈愛心と共鳴し、

なんとも言えない幸せな気持ちになれるのだと思います。

人間は生まれた時…物心つくまでは慈愛で満ちた

神仏的存在なんだと思います。

人生のスタートである赤ちゃんが不足不満のない

慈愛の塊(カタマリ)だということはつまり、

人間の本質は慈愛…

『愛で満ちた存在』なんだということが分かります。

それが、成長するにつれて「物心」がつき

「我」が現れて来ます。

我が強い程、自他とのトラブル(苦難)が増え、

不足不満…不幸になっていきます。

が、苦難というものは、

『自分(家系含む)の悪いところを映す鏡』なので、

その苦難を手掛かりに正しい修業をし、

自身の精神的(たましいの)レベルを上げていきます。

理想なのが、生きている間に

神仏のレベルに達することですが(即身成仏)、

私たち凡人には不可能な域ですので、

死んだ瞬間に人間としての修業にひと区切りつけ、

成仏する(仏に成る=悟る)ようです。

私が言いたいことは、人間(の魂)は生まれた瞬間までと、

死んだ瞬間以降は完全なる神仏の悟りの境地の世界に

存在するということです。

従って私たち人間は、生まれてから死ぬまで

『進化』し続けるべく修業を重ねるべき存在であると同時に、

生まれてから発生する『我』によって引き起こされる

苦難を手掛かりに修業を重ねることによって、

神仏のレベルに環ってゆくという『深化』と、

2つの『しんか』を成すべき存在なんだと思います。

例えば、木は地上に枝葉を繁らせます(陽、進化)。

と同時に地中に根をはわします(陰、深化)。

一見反対方向で別要素の『しんか』ですが、

二つのしんかは「ニコイチ」で、

両方の力が調和した時に、全てが一気に成長します。

人間の成長や、物事が成就する法則も同じで、

見えるカタチでの

『進化(自己革新、新しいこと、よい出来事から得る感謝や歓喜)』

ばかりに目が行って、

『深化(凡事徹底、毎日正しいことをやり続ける習慣、

わるいことから得る反省や懺悔)』が

おろそかになる傾向にあり、それが健全で劇的な進化を妨げています。

・・・ってことで今日も、徒然なるままに書いてみました。

他にも書きたいことはあるのですが、

娑婆の世界で、あれこれせなアカンことがありまして・・・

そっちも一所懸命がんばります〜(^0^)♪