「世のため、人のためにがんばります」

・・・って私も、周りの方々も日頃口にしますし、

いろいろなところで文書として見かけます。

ふっと思いついたのですが、

それって半分真実であり、半分虚実のような気がしました。

それが何故かと申しますと、

例えば、100%「世のため、人のためにがんばります」という

捨我の人生を歩んでいたらどうなるか。。。?

例えば、大阪市内を歩いておりますと、

いわゆる「ホームレス」が結構おられます。

見るからにお金に困ってはるようです。

また生活保護の受給者も多いです。

そんな人達に

「世のため、人のためにがんばります」と

一人1000円ずつでも渡して行けばどうなるか。

相手さんからは、いたく喜ばれるかと容易に想像できます。

しかしながら、自分のお財布からは

どんどんお金が減っていく訳です。

極論ですが、持ち金がゼロになるまで

「世のため、人のためにがんばります」なのでしょうか?

私たち凡人は、マザーテレサ的な

究極の悟りの境地に達した存在ではありませんので、

そんなことは出来ませんし、そもそもする気もない訳です(笑)。

ですので、実際は、

自分の幸福(お金などの物質的なものを)確保した上で

残りを何らかのカタチで施すということになろうかと思います。

つまり「世のため、人のためにがんばる」とは、

「世のため、人のためだけにがんばる」のではなく、

「自分と同時に、世のため、人のため・・・

みんな&全部の(幸せの)ためにがんばります」

ということが、正しい言い回しなのではないでしょうか。。。

私自身、そのようなニュアンスに今後変更したいと思います(ー人ー)☆

・・・結局のところ、真に人様に施せる人間とは、

心身ともに、ある程度の『ゆとり』・・・

つまり幸福感を持った人でないと

施せる(徳を積める)人間修行は出来ないようです。

ですので、極度に経済的ゆとり・時間・体力&気力の無い方は、

施し(ボランティア)活動は向いていないようです。

ただ「幸福感」に極度に困窮されておられる方で、

幸福感を持ちたいと切に思われる方は、

敢えて、施し活動にチャレンジされた方がいいように思います。

何故なら、真の幸福感とは、

自分が感じる幸福感と相手が感じた幸福感が一つになった瞬間、

またその一体感が継続し発展している時に感じるものだからです。

別に、海外協力隊とか行けばいい・・・という

そんな大それたものだけではなく、

電車に乗っていて、お年寄りや小さな子供が乗って来たら、

すっと自然体で席を譲って差し上げるという

そんな“些細な積み重ね”が徳積みというものであります。

(つまり、自分で出来る範囲のことをするということです)

例えば、100万円寄付して徳が100UPし、

1万円寄付して徳が1だけUPした!というものではないようです。

人間の世界では、そう評価されるのですが、

それはあくまで「得」の世界・娑婆の世界の物差し(判断基準)であり、

神様仏様の世界の「徳」はそんな次元ではありません。

以前、四国遍路の「お接待」のことで書かせて頂きましたが、

お接待から得た私が思います徳積みの概念

(徳積みの神様仏様の世界の物差し・判断基準)ですが・・・

①施した金額や物の値段価値ではなく、

 その人の『念』(心から発する想い)の質と量。

②自分の見返り(得)を求めず、

 どれだけ相手のことを思い、幸せを願い施したか。

③どれだけ、自分自身が喜んで施したか。

 (無理矢理&嫌々出すと効果激減)

④どれだけ、今の自分が出来る、精一杯の施しをしたか。

 (例:年収100億の人が100万円寄付するよりも、

 年収100万円の人が1万円寄付する方が、徳積み度合いは大きい。

 ※総収入における寄付金額の割合が違う)

この4つくらいのチェックポイントがあるように思います。

・・・今思いつきましたが、

徳積みとは、「現在過去未来に対する施し(浄化)」という

ぼや〜とした供養系の・・・今の私たちに間接的&密接に

影響するものであると同時に、

『善い習慣づくり』でもあるんやなと思いました。

(※習慣とは、思考習慣と生活習慣のことです)

例えば、先述の電車で席を譲って差し上げるという徳積み行為が

だんだん板についてきますと(習慣化)してきますと、

そんな人達が電車に乗って来た瞬間、

「声かけても、断られたらどうしよ」とか

「私、しんどいから座っていたいし」とか

そんな私情は一切挟まずに、反射的にぱっと立って

「もしよかったら、どうぞ〜」って声が出てきます。

更に板についてきますと、

電車の中だけでなく「応用が効く」ようになって来て、

日常生活の空間の中全てで、

いわゆる「社会的弱者」や「困っている人」「悩んでいる人」を

ぱっと見つけ出し、その方々の問題を即座に解決に

導いてあげれるようになって来ます。

そんな善い習慣のある人が、生活に困窮したり、

路頭に迷ったり、人から嫌われる訳がありません。

なぜなら、お金も素敵な物も、善い情報も全て

『人からもたらされる』からです。

従いまして、善い行いをする人の周りには、

善いもの(人・物・カネ・情報)が集まってきます。

(※類は友を呼ぶ理論)

ですので、その人の本質を知る、確実な手段は、

その人の「とりまき」をよーく観察するという方法です。

その人の周りに集まって来ている人、

その人が持っている物、その人が使っている場所を

冷静に観察するのです。

その人の『心の中』は見えませんが、

その人が及ぼす外部環境は誰の目にも見れますしね。

・・・例え、善い人の周りに悪い人が身近にいても、

遅かれ早かれ何らかの理由で消えていきます。

私が思いますに、その理由として・・・

①善い行いをしている人が、その人が悪人だと気づき、

排除するか、自分から逃げる。(善い気づきを得る)

②善い行いをしている人に、別の善い人が、

「あいつは、ああ見えて悪い人だから、縁を切った方がいいよ」と

教えてくれる。(善い情報を得る)

③同じ善い人(仲間)が「あいつは悪い人だから」と

排除してくれる。(善い仲間を得る)

④悪い人が「こいつとつんでても、一銭の得にもならんから」もしくは

「俺が悪人だとバレそうだから」と、自分から去って行く。(善い縁だけが残る)

いやはや。。。

人生、いろんなことがありますよね〜(^^)♪