「修験道の本」

年末年始、じっくり読ませて頂いた本・・・

前・金峯山寺管領の故・五條順教師の本

『修験道に学ぶ』です。

この中から、2つ、特に印象に残った箇所を

ご紹介させていただきます(^^)。

①『少欲知足』

「欲のない人間はいない。

それぞれが、それぞれの欲望をもとに

あくせくしているのが、

人間の営みというものであろう。

欲ゆえに争い、欲うえに傷つき、欲うえに道を誤る。

人間の悲しい性(さが)というものであろう。

私たち人間は日夜、『六道』を輪廻してあきることがない。

まことに情けないことである。」

『六道』とは・・・

ランク①:地獄道(じごくどう)
ランク②:餓鬼道(がきどう)
ランク③:畜生道(ちくしょうどう)
ランク④:修羅道(しゅらどう)
ランク⑤:人間道(にんげんどう)
ランク⑥:天道(てんどう、天上道、天界道とも)です。

私たち人間(の心・魂)は日々、

この六道の間を行ったり来たりしているとのことです。

なろほど。。。確かにっ☆

ここで言う『欲』とは、『強欲』かと思われます。

つまり、自己快楽並びに自己の幸福のみを追求する

「生命エネルギー」の方向性・使い方のことであります。

人間には『欲』という「生命エネルギー」があります。

これがないと生きてゆけません。

例えば食欲や睡眠欲がないと生きてゆけません。

性欲がないと子孫が出来ません。

ですので、本来に『欲』自体には、

いいもわるいもないようです。

ただ、自己中心的・己の快楽(幸福)のためだけに

この『欲』というエネルギーを使うから

自分も含めて周りにありとあらゆる問題を起こし、

その自ら撒いた“悪因”で、自らの手で自滅してゆくのです。

地獄道〜修羅道あたりを歩いている人間は、

「人間は強欲で当たり前」だと思い込んでいるようです。。。

例えば・・・極端な例ですが、

「俺の稼いだカネやし、何に使ってもええやんけ〜」って、

余計なことに散財しまくり、家庭や会社は崩壊、はたまた

「俺が惚れたオンナやし、何してもええやんけ〜」って

奥様以外にオンナを作りまくり、奥様と離婚、子供が離れ、

そして終末は病苦で苦しみながら死んで逝く。

嗚呼、なんと哀れなんでしょう。。。

そんな地獄道の中で、人間は反省・懺悔する訳です。

(っていうか、反省懺悔&改心しないと、ずっと地獄の中です)

「自分の快楽・幸福も大事やけど、

自分以外の幸福も大事にせなアカン」と。。。

そうして、修羅道〜人間道が始まるようです。

「自分の快楽・幸福」と

「他人(自分以外の人・環境)の幸福」とが対立し、

どうずれば両方が達成できるか悶々と悩み葛藤し続けます。

言葉では説明しづらいですが

だんだんと、「どっちか」の対立の境地ではなく、

「どっちも」達成する方法といいますか、

在り方(調和・中庸の境地)が観得て参ります。

そうなると、天道という境地になって来るようです。

私が観察しますに、

自己快楽・自己幸福に突っ走る人間の多くは

生命エネルギーが強く、あり余っている状態のようです。

あり余っているので、余っている部分が

余計な(つまり人の道からそれる)方向へ

行ってしまっているようです。

しかしながら、あり余っている人でも、

余計な方向に行っていない人もおります。

(すべて、必要な方向に向かっている人のことです)

それはエネルギーの持ち主である人間の心が

正しい方向に向き、ぶれていないからです。

(割り切って、敢えてそれているエネルギーもあります。

だけど、「これ以上はそれない・間違わない」という

確固たる意志を持って、それているということです。

具体例としまして、奥様以外に外に女性がいても、

『完全犯罪』で誰にもばれないように

きちんと線引きをされ、誰にも迷惑が及ばないように

徹底をされているということです)

やはり、生命エネルギーという目に見えないものであっても、

持ち主によって使い方・活かし方に雲泥の差があるようです。

私としましては、

そのあり余るエネルギーを「昇華」させ、

自他の幸福の為へと、一直線に向けてゆこうと努力・精進することが、

『行』というものの一つの目的なんだと捉えております。

結局人間というものは、

自他の幸福、今生きている人だけでははなく、

過去に生きていた人や未来に生きる人のために

自分自身の命(生命エネルギー)をどう活かして行くか?

というところに、人生の『真の勝負・勝敗』があるんだと思います。

他人との競争はただの見せかけ・自分磨きの参考程度のものであり、

実のところ真の競争とは、

「今の自分」対「あるべき未来の自分」

なのではないでしょうか。

・・・話し戻しまして、『少欲知足』とは、

「欲(強欲)を少なくして、足るを知る」ということのようです。

今、自分が持っている幸福に感謝出来ない人は、

これから得るであろう大きな幸福にも感謝は出来ず・・・

感謝しないから大切に出来ないので、

結局、大きな幸福を自らの手で落とす・捨てることになるようです。

②『泥棒を招待するな』

「お釈迦様は、誰とでも無差別に

親しくなれとはおっしゃっていない。

『愚かな者を見るな。その言葉を聞くな。また彼とともに住むな』

とまで小気味よくいい切っておられる。

つまり、悪い縁を作るな・切れということである。

この厳しいお釈迦様の言葉から、私たちは、

仏道(自他幸福への道)を成就するためには

それほど決然とした心がまえを態度が必要なのだ。」

・・・私は、このお言葉に年始早々、大いに救われましたっ(^0^)!

私は行を進めるにあたり、

また生きている上で、日々いろんな人と出会います。

ところが、どうしても「嫌な人」とも出会うのです。

私の言う「嫌な人」・・・

それは、自己快楽・利益だけを貪る人です。

例えば、それが企業人でしたら

徹底的に値下げ交渉をして来ます。

「適正価格」というものではなく、

安けれりゃーいい、値切った者勝ち状態です。

正に自分たちの幸福しか考えていません。

こんな人間や組織にでも「はい喜んで」と

ニコニコして、お受けしなければならないのか?

常に葛藤がありました。

他にも、妻帯者の男性が私のような独身女性を

サカリのついた犬の如く、くどき回っています。

(悪因や悪念が強い独身男性も同じですが)

これもはっきり申しまして

そんな男性の話を聞いただけでも、気分が悪くなります。

いくらいいオトコであっても妻帯者と

性的な関係を持つのは絶対にいけません。

このような性的な罪が、

いろいろ調べますと、この世で最も深い罪のようです。。。(嗚呼、恐ろしい・笑)

「性」というものは、本来は最も『神聖』なものであり、

それを穢れさせるのが、いけないようです。

(詳しくは、恐ろしすぎて書けないです。。。)

そんな真実から目を背け、自己快楽に溺れ続ける人たちが

罪を増産し続け、周りの親族や社員、そして子孫までに

その罪を及ぼし続けているのです。

ダメなものはダメ。

理屈なしの「理(ことわり)」であります。

そんなサカリのついた“犬人間(っていうか“動物的ヒト”です。)”に対しても

「はい喜んで」とお受けすればいいののでしょうか?

絶対におかしいでしょう〜っ(笑)☆

なお、妻帯者(彼女持ち)の男性の肩あたりには女性の気・・・

(奥様や娘さん、時に母親)が観えます。

夫婦仲や親子関係が悪い場合(縁が薄くなっている場合)は、

そんなに観えませんが、やはり何となく分かります。

(彼女や奥様と別れる時に、間違った別れ方をし、その『念』が

怨霊のように変わったのも『気』として感じる時もあります。嗚呼、恐ろしい・苦笑)

・・・そのあたりのことが観得ますので、

とにかくその人間の「気(生命エネルギー)」の質や量(状態)で

何となくのその人間の性(心の状態)を読み、

後は、その人間と会話をしたり、

身の回りの環境や「取り巻き」の人たちから情報を得、

右脳左脳両方で、その人間を分析を行っております。

とにかく、人であっても、何かの問題・事象であっても、

本質・本体を見極め、正しい状況判断をし、

そして正しい言動を行わなければ

正しい人生は歩むことは出来ません。

ま、そんなかんだで、

「泥棒を家に招待して、翌朝目覚めたら物が盗まれていた」とか

殺された・・・とかがないように、

今まで「年上・先輩だから」とかとか、遠慮していた分、

徹底的に取捨選択を実践すると決意いたしました。

人生は長いようで短いものであります。

だから私は、よい人とお付き合いをし、

よりよい人生を歩んで、そして逝きたいと思っています。

よい縁というものは「よい人」から齎されるものであります。

わるい人からは「よい縁」が齎されることはありません。

これは「理(ことわり)」であり真実であります。

・・・人生はいつ終わるのかも分かりません。

今日終わるかも知れません。

誰にも分かりません。『分からないように出来ている」ようです。

もしも分かったら、人間みんな

「決まっているんやから努力しても無駄」って

怠慢に走るから、分からないようにしているんだと思います。

人生って、終始歯がゆいですが、おもしろいですね(%ニコ女%)(%音符1%)

・・・1月2日の朝に、私を四国遍路の「公認先達」へと

ご縁を導いてくださった、

大先達の引田さんからお電話がありました。

200周お四国をお参りされたということで

元旦の『愛媛新聞』にそれが掲載されたとのことです↓
http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20150101/news20150101634.html

その時、引田さんにもズバリ言われ、

自分でも何とな〜く感じていたことなのですが、

やっぱり私(の人生)って「行者」のようです。

この「行者」というのが私の人生の定めのようです。

「定め」なので、逃げられません。

逃げられないのであれば、行けるとこまで

曲がりなりにもやり抜くしかありませんよね。。。

ちなみにこの「行者」とは、分かりやすく申しますと、

まず、山に入り大自然の中で自分対自分の修行をし、

そこで真理真実を悟ります。

で、その悟りを里に下りて、民衆に伝え、

またあらゆる方法で、衆生救済を行うというものです。

本来の「修験道」は、このような使命役割を担っていますが、

最近は、修行ではなく登山感覚・遊び感覚で大峰山に登り、

何も悟らず戻って来たり、

自己快楽・自己満足、自分のためだけにで登ったり、

はたまた、山の修行に没頭し、仙人になってしまい、

里に下りて来なかったりする、間違った修験道も多いと

五條師は釘を刺しておられます。

・・・先ほど、欲のお話しをしましたが、

食欲、性欲、物欲、名誉欲、いろいろありますが、

私の場合、「真理真実を知りたい」という欲が強烈のようです。

その欲(使命)を達成するために、他の欲(生き続ける為のもの)が

存在するという感じです。

この私の一風変わったこの「強欲」を理解して下さる方は

そんなに多くないかも知れません。。。

最近、こんな修行話を日本語でしても、

私の日本語が通じない日本人が存在することに気づきました。

もうそんな人は相手しないことにしました。

大局観での「真理真実を知りたい」人だけと

真正面からお付き合いさせていただき、

後はさら〜っと「適当(適度な度合い)」に流すことにしました。

自分だけの真理を探究したい人はそれもよし。

その人が自身の誤りに気づくまで、

地獄道へと堕ちてゆけばいいかなと思います。

それがその人の修行の道(縁)なのですから。

誰もどうして差し上げることも出来ませんしね。。。

その一風変わった私の強欲に対して、私は

「自分はおかしいのでは?」と思い、

一種の劣等感のようなものがありましたが、

この2015年以降は

「おかしい」ではなく「おもしろい」という発想で参りたいと思います☆

これは、いい意味での「開き直り」であり、

いい意味で、「こだわり」というものを捨てることの出来た

この2015年のお正月でありました。

最後に、よしこちゃんの2015年のテーマ(目標)です。

それは・・・

「明歴々露堂々(めいれきれき ろどうどう)に生きる」 

この明歴々露堂々も五條師に教えて頂きました。

「はっきりと顕われていて、少しも隠すところがない」

という意味です。

本音も建前もなく、表も裏もない。。。シンプルに見た目のまんま!

そんな対立を超えた「光の存在」を目指したいと思います。

基本、低姿勢で柔軟&素直さを中心軸に置く訳なのですが、

「スイッチ」が入りますと、急に凛っ!として(笑)、

自他の幸福(大局観)を真っ直ぐと見据えた言動を積極的且つ果敢に行い、

そして失敗した&間違った!と思ったら

すぐに反省&懺悔して、何の躊躇もなくさっと止めて行きます。

やる時もやめる時も正々堂々・・・遠慮はしません☆

おかげさまで人生が、

ますます楽しくなって来ましたっ(%笑う女%)(%晴れ%)