京都・東寺へ 〜人間の死に際について〜

1月11日。

私を四国遍路の先達へとご縁を繋いで下さった、

大先達の引田さん率いる『三和会』の方々が、

四国・愛媛から京都・東寺

高野山にお参りに来られるということで、

東寺から合流させて頂きました。

(私は用事がありましたので、東寺のみ参加です)

そもそも東寺は、唐から密教を学んで来た空海が

嵯峨天皇から真言密教を普及すべく与えられた根本道場です。

そんな空海ゆかりの地ですので、

お遍路をしたいと思う人はまずここに伺い、

「私は今から仏の道を目指します」という

『発心』をする場所という意味合いを持つようです。

今ではすっかり観光地化され、

信仰心がない人でも気軽に行けるようになり、

聖地という感じは薄らいでいるように感じられますが、

私たちは東寺の中にある『大師堂(御影堂)』

(空海がかつて暮らしていた場所)という

観光客がそんなに多くない場所に行き、

四国遍路のお経を唱え、それから向かいにある、

ご先祖様をご供養する場所『回向所』でも唱えさせて頂き、

それから宿泊先のホテルに向かいました。

夕食中など三和会の方々と

ワイワイお話しをさせて頂きました。

私はここでも最年少の後輩ですので、

質問をされたり私が質問をしない限りは、

お話しを聴く側となります(笑)。

四国遍路が好きな(価値観が合う)方々が

集まっておられますので、

おかげさまでとても楽しい時間を過ごさせて頂きました。

・・・その中で、最も印象に残ったお話しを

ここで一つご紹介をさせて頂きます。

それは『人間の死に際』のことです。

死に逝く人全員に当て嵌まるかどうかは分かりませんが、

多くの人の死に際を見聞きして

来られた先輩方がおっしゃるには、

結構な割合いの人の死に際にこれが当て嵌まるようです。

例えば、ある高齢の男性が重い病で病院に入院していたとします。

お見舞いに来られる方やその人の

身の回りの世話をする方のことを思ったり(思いやり心)、

あれもこれもと干渉されるのが嫌だったり(頑固)、

身体&精神的に弱い・情けない所を見せたくない(プライド)等

という理由で普段は、

「さっさと帰ってええよー」とか

「もう来んでええよー」とか言われるそうです。

最初は「生きて必ず退院するぞ」と

気概を持って入院したとしても、

やはり老化や寿命というものには勝てず…

はたまた死ぬことへの恐怖や嫌悪感等で、

自分がいよいよ死ぬという現実を受け入れられず、

「死にたくない!」と葛藤が深まるようです。

そしていよいよ死ぬという時、

人間は「死にたくないけど、…死ぬんや。」と、

自身の『死期』に気づく…つまり死を悟った時に、

人間は始めて『自分は死ぬ』という現実を、

素直に受け入れるそうです。

すると今までわがままで頑固一徹だった

男性の心が一気に素直になって、

奥様に「今までありがとうな…」とか、

「今すぐに家に帰って死にたい」とか、

奥様などに「今日は家に帰らず、

ずっと側にいといてくれへんか…」とか、

急に自分の『ありのままの想い』を

素直に口にされるとのことです。

死に逝く人間が最期の最期に、

『素直』になり、そして仏様のもとに旅立って逝くようです。

私は一度も死んだことがないので(笑)、

この死に際のお話しはめちゃくちゃ勉強になりました。

決して長生きすることを諦めた訳ではありませんが、

自らの死期を感じた時は、

なるべく早く潔く死ぬという現実を受け入れ、

素直になって心穏やかに旅立って逝けるよう、

日々そんな気概を持って生きてゆきたいと思いました。

人間は『死』を持って、『生』という、

人間にとって最も重要なものを、手放す覚悟が出来た時・・・

あらゆる物心の執着やこだわり(我)を

捨てる修業を満行(クリアー)し、

『素直』になってあの世に逝くようです。

これが『真の悟り』であり、『真の幸福』なのかも知れません・・・。

真の幸福とは、何かを得た瞬間・・・ではなく、

何かを捨てることの出来た瞬間なのかも知れませんね。

お大師さんは死ぬ時にやっと仏になる・悟るのではなく、

生きている間に悟り、幸福になるという『即身成仏』を掲げられ、

それであらゆることをされ、その中のひとつとして、

四国遍路という『修業の道』を作られたようです。。。

…ある方々からお伺いした話しですが、

死んだ人の中には、自分が死んだという

事実を受け入れられず…はたまた死んでもなお

『死にたくない、やり残したことがある』と、

成仏しないで、この世でさ迷う…身体を持たない人間(つまり『霊体』)が

存在し続けるとのことで、

その霊体が、ある場所に憑いたり生きた人間に憑くようです。

この『霊体』は目に見えず、

私は存在の有無はあまりよく分かりませんが、

分かる人には分かるようです。

死んでもなおこの世にい続ける霊体(魂)は、

どうやら『マイナス感情』を持ってるようです。

所謂、『怨念』というやつでしょうか。。。

本来人間は死ねば、あの世に素直にいくものを、

敢えて行かない選択をしている訳ですから、

その念はかなり強烈な感じがいたします。

そしてその霊体が持つ念と同じような

念(気・磁場)を持つ場所や人間を、『住家』にしているようです。

これは生きている人間同士でも同じですが、

同じような魂の(精神的な)レベルに

合った人たちが集まるようです。

まさに『類は友を呼ぶ』でしょうか。

「霊(体)が怖い〜」と、言っておられる方がおられます。

私は思うのですが、霊体は身体(口や手足)が無いので、

そんなに怖くないと思うんです。

本当に怖いのは、

身体がある生きた人間なのではないでしょうか(笑)。

口や手足がある上に、私に対して怨念を持たれてしまったら、

散々文句を言われた末、家の前で待ち構えられ、

ナイフでグサッとやられそうです(-.-;)。

そしてやっぱり最後に思うことは、

自分自身のレベルさえ上げておけば、

マイナスの念を持った霊体や、

生身の人間は近づいて来なくなりますので、

あれこれ不安がったり、

恐怖心に苛まれたりする時間や気力があれば、

『行(修業、正しい実践)』によって自らの手で、

自らのレベルを上げて行くということが、

最大の防御であり、幸福への道なのではないのでしょうか。。。

12日朝、三和会のみなさまは、

高野山に向けて旅立ってゆかれ、

私は次の用事があって在来線を乗り継ぎ、名古屋方面に行きました。

久しぶりに在来線の旅をゆっくり満期できました。

旅のお供は、三和会の方々の『お接待』で頂いたパンやおみかんです。

短い間でしたが、みなさまに素晴らしい人生経験や気付きを頂き、

おかげさまで、私や私の身の回りの方々の

よりよい人生に役立てそうな感じです。

大先達の引田さんを始め先達の方々とは、

この春高野山で開催の『先達大会』で

お会い出来ますので

またいろいろと教えて頂きたいなと思います。

ありがとうございました(^O^)☆