『山の行』とは、四国遍路・大峰山系等、
人里離れた霊峰・霊場で行う
『自分(今の不完全な自分)対自分(未来のあるべき、完全なる自分)』とを
どう合致させるか?の修業。
真の己自身(心理・真理)を知ることにより、
己を知ってゆく(深め、磨き高めてゆく)行
(※真理はどこか遠くにあるのではなく、己自身の奥深くに存在する。
一本の太い丸太から『我』という余計な木屑を、
自分の手や他者の力を借りて、ノミで削り取っていき、
一体の仏像をつくってゆくようなものでしょうか)
一方、『里の行』とは、我々人間の日常生活そのもの。
『自分対他者』の修業。他者(真理)を知ることにより、己を知ってゆく行。
これら山と里の行は、比率は人により違えど、
自転車の両輪の如く、双方には相関性があり、
双方からの修業アプローチにより、
両面から真理を知ることが出来る。
人により条件は違うけれど、
両方の修業アプローチを人生に組み込むと、
真理を知る・真の幸福を知る…到達する。
よくあるパターンは、『里の行』ばかりの人。
所謂「俗人」であります。
谷の下にいる人という漢字の意味がありそうです。
それはそれでいいのかと思いますが、
人生の中に少しでも「山の行」を取り入れることにより、
人生やより深く、そして高くなってゆく感じもいたします。
一方、「山の行」ばかりの人もごくたまにお見かけいたします。
所謂「仙人」です。
山の上にいるという漢字が当てはまるのかなと思います。
あるお坊さんの本で学ばせて頂いたのですが、
本来、お坊さんや行者の絶対的ミッションとは、
「自身が山の行・荒行で得たことで、衆生(俗人)を救いに導く」
ということであります。
ところが、仙人とは、ずっと山の上・奥で暮らし、
外界に下りて来ないで、ずっと修行しています。
となりますと、仙人の修行は自己満足・自己快楽で終わってしまう訳です。
いかにも「仙人」っぽい格好をしている修行者が
ごくたまに下界に降りて来て、
上から目線で俗人にあれこれ説教している場面を
ごくたまにお四国などでお見かけいたします。
山の行・荒行で得たこと(真理)で、
何も知らない・分かっていない俗人を責めまくり、裁いています。
『真理という刃物』で人間の心を傷つけ、切りまくっております。
こちらもあくまで自己満足・イケている自己に酔っているだけであり、
そのような仙人は、本来の修行のミッション
「自身が山の行・荒行で得たことで、衆生(俗人)を救いに導く」を
達成していませんので、中身はただの俗人のようです。
こんな感じで、山の行も里の行も、とっても奥深き宇宙観があり、
悟りというものに近づけば近づく程、
その宇宙という無限大に広がる真理・悟りが遠のくと言いますか、
知れば知る程、掴めば掴める程、
自分の無知さ、愚かさに気づき、
こうべを垂れる稲穂かな・・・と身も心もまあるくなって行かれるようで、
そのお姿・心の有り様そのものが「悟り」であり、
「仙人」というもの本質なのかなと感じています。