「先達教典」

現在、洞川温泉にこもっています。

昨年12月1日、四国八十八ヶ所霊場会公認先達の

新任研修会で頂いた「先達教典」を

改めて読ませて頂いております。

ここに書かれております先達として、

そして人間としての生き方なんて、

そうカンタンには実践出来ませんが(凹)、

その中で特にシンプルで素晴らしい内容を

ピックアップしてみました(^^)♪

①お四国の信仰の一つの柱として、

「捨我(しゃしん)」こそ最も崇高であり、

また先祖のために追善を施し、

と同時に子孫のために作善を行うというのが

「先祖を崇拝する信仰」です。

→なるほど。。。

日本の宗教は正に『神仏習合』で、

神様(神教)か仏様(仏教、ご先祖様)ではなく

神様と仏様両方と同時に繋がってゆく

という感じのようですね。

山の修行だけでなく、日々の生活で陰徳を積んでいなければ、

折角山の修行をやっていても、本末転倒どころか、

山の修行をしていない人以上の

『罪』があるような気がいたしました。

②遍路は、身体の活動を通してひとつの目的を追求していく。

この追求は、日常すべての行動が「修行」というに

ふさわしい意義を持っている。

順風にせよ、逆風にせよ、それを生かすも殺すも

対応する人の考え、行動の仕方によって決まる。

→結局のところ人生は、自分自身の心のあり方で決まるのですね。

あと、「身体の活動」=実践・行動であります。

実践行動が無い、正しい知識の蓄積は、

知識が暴徒化し、人を責める(攻める)道具にしかならず、

(責め心になる)

結局、自分も責めることになり、自他共に罪をばら撒き、

人生が善くなってゆかないようです。

逆に、実践・行動ばかりして、正しい知識を入れない、

人の意見を聞かない・勉強しない人も存在します。

そんな人は、結局正しい実践の精度が下がり、

動いている割にはお金は稼げないし、人からの信頼も得ることが出来ず、

罪を多くばら撒いて、人生が善くなってゆかないようです。

ですので、正しい知識(意見・アドバイス)を

常に受け容れてゆくことと、

正しい実践・行動を行い続けることは、

自転車の両輪の如く、ワンセットであります。

③ひとには、限りなくものをほしがる「貪(むさぼ)り」、

他人を傷つけ、自らをも損なう「瞋(いか)り」、

ものごとの道理をわきまえない「痴(おろか)さ」がつきまとう。

仏教ではこれを「三毒」という。

④「煩悩の波を静める」という表現は、

人間の欲望は決して排除されるべきものではなく、

(っていうか、完全に排除したら生きてゆけない)

よりよく発揮されるように仕向けることこそ、

正しい生き方である。

正確には「煩悩と呼ばれる状態の解消」であると

理解すべきであろう。

→煩悩とは、三毒から発心される

自分だけの快楽や幸福を追求するもの・欲望のことで、

私達の人生は、その欲望との戦いの連続。

その欲望は数限りなく、しかも拡大の一途をたどるのが常である。

往々、この欲望に挫折を感じ、また、陰に陽に人を傷つけることさえあり、

その最も傷ついている・罪を背負っい続けているのは己自身である。

仏教では、このように制御調整をはずれた欲望を煩悩と呼んでいる。

真の人間の幸福(即身成仏。生きたまま仏になること)を

阻害している要因が、煩悩なんだということですが、

この煩悩をどう解消するのか・・・

自分だけの幸福・快楽の追求に自身の

生命エネルギーを使うのではなく、

と同時に自分以外の人や対象の幸福のために

生命をどう使ってゆくのか?

それを掴むための、最も手っ取り早い方法が、

日本古来からの『行場での修行』のようですね。

「先達教典」に面白いこと(事実)が書かれてあります。

かつて真実を知る・荒行を通して悟りを得るために存在した

行者たちは、まず都(大和の国、つまり奈良)から南下し、

吉野・大峯に向かって行ったそうです。

と同時に紀の川沿いを下り、河口に出、紀伊半島沿いに左へ曲がり

和歌山県の熊野方面にも向かって行ったそうです。

(昔むかしは、大峯と熊野の道は繋がっていなかったようです)

が、だんだん多くの人が入って行くようになった山では

物足らない・悟りは開けない・・・と、更なる修行を求めて、

紀の川の河口で左に曲がらず、まっすぐ向かい、海を渡って

四国・鳴門に上陸し、お四国という「邊道(へち 邊路(へんろ))」

未開の地に入って行ったとのことです。

ということで、歴史的には

行者にとって大峯・熊野が最も古い行場で、

その後に、お四国や、全国各地の行場が続くようです。

で、その昔からの行場で『お四国』が最も過酷な行場なんだとか・・・。

確かに、総延長1400キロもある修行道ですからね(^^;)。

お宿のおじさんにいい情報を教えて頂きました☆

大峯山(山上ヶ岳)は昔から「女人禁制」であります。

一方、「稲村ヶ岳」という霊峰もあり、

そこは『女人修行の道場』と呼ばれていると

教えていただきました。

この「稲村ヶ岳」は、男女双方が登れます。

両方登ったことのある、そのおじさま曰く、

「稲村ヶ岳」の方が距離も標高も高く、しんどいそうです(笑)。

あれれ!?『女性修行道場』の方がしんどいって、

ちょっと新鮮な驚きです☆

往復16キロ、所要時間7時間の修行の道なんだそうです。

ほっほ〜・・・。

行者・よしこちゃんとしましては、

一生の間に、1回は登ってみたいなと思います。

(恐らく、1回で挫折の可能性大 ー0ー;凹)

ずっと山よりも・・・

そして、同じ道を行って戻るよりも、

山あり谷あり、そして里ありで、一周くるっと周る

四国お遍路の道の方が、個人的には好きです

(あくまで勝手なる個人的主観・好みのお話しです 笑)。

そんなかんだで、

これからも自分の心が惹かれる行場を目指して・・・

また自分レベルの行の方法で・・・

自分自身を磨き高め、そして深めてゆきたいです。

・・・しばし洞川にいて、おかげさまで、

どっしり落ち着いて参りました。

「漬物石」になったような気分です(笑)。

また、アタマの感覚が冴えて来ました。

なんか不思議なのですが、霊峰(お四国含め)に

行けば行く程、冴えてくるのです。

これはチョット理屈では説明が出来ません。

物事をまず直観(直感。右脳)で判断し、

その後で理論・情報(左脳)でその正確さが確証させてゆきます。

その直観(物事のありのままを観れる能力)の精度が

どんどん上がって来るのです。

私の場合、かなり慎重で保守的な性格の持ち主ですので、

自分の直観でピーン☆と観えても、すぐには判断・行動はしません。

(推測は行います)

自分の直観が正しいかどうかの分析判断を

左脳にて同時進行で行い(理詰め作業)、

右脳左脳双方でOKが出ないと、絶対に動きません。

逆に左脳的にOKであっても、直観的に

「なんかしっくり来ない」「なんとなく、嫌〜」って思う場合も行動は起こしません。

(もしくは、いつでも元の状態に戻れるように、ちょっとだけするとかします)

私は右脳左脳双方を同じくらい活用している、

ハイブリッド型の思考形態を持つ種類の人間だと思います。

そんな感じで私の場合(恐らくみなさんもそうだと思います)、霊峰に行きますと、

霧が晴れたような感じで、いろんな『もの』が観えて来ます。

ちゃんと観えれば、例えば、1キロ先に

怖いものがあったとしても、私を騙そうとする人間がいても、

その存在がちゃんと観え、覚悟(心構え)が出来るので、

傾向と対策を練っておくことが出来、怖いことはありません。

「来るなら来い」真正面から受けて立ちます。

(時々、ドロン☆して、相手に気づかれる前に逃げたりもします・笑)

この感覚が、大阪にいてもずっと続けばいいのですが、

私にも煩悩があり、それに流され、そして人にも流され。。。

我ながら、こんな自分自身の弱さに密かに嘆き、憂えています。

(ま、昔の私よりかは、ずいぶん強靭にはなりましたが、まだまだです・涙)

都会でせかせかとド近眼的な生活を送っておりますと、

だんだんと心がコロコロ&フワフワ・・・落ち着かず、彷徨って来て、

何がどうで、どうなっていて、そしてどうあるべきなのか?

観えなくなって来て、それが、不安(不安定な気分)になったり、

自分を責めたり、他人を責めたり、

そして過去を悔い、未来を憂えるようになって来てしまいます。

これは私だけでなく、そこらじゅうでよく見かける人間模様です。

酷い場合は、お化けのように足がなく、ちょっとした風でも

フワフワと彷徨っている、紙のように軽い人間が結構存在します。

私は、

大海原でどっちに向かってこいでる船か分からず・・・

一体どこに行きたい船なのか、船長自体が分かっていない・・・

そんな人生は歩みたいとは思っていません。

もしもそのような船の旅に一緒に詰め込まれたら、

たまったもんじゃー、ありません(>0<)!

私の持つ全能力を使って、そんな人間の人生に巻き込まれるのを避けて通るか、

もしくは、その船長のサポーターとして、その船の中にいる人達と共に

ちゃんとした目的地を持った正しい人・組織にするか、どちらかであります。

・・・あと、だんだん自分の盲点が観えて来ましたが、

いくら私が、

いろんな条件が揃っていて、あれこれ出来るからと言って、

あれこれやるのは止めました。。。

結局、自分の首(時間)を取られるだけやな・・・と。

まだ少し私の人生において、「取捨選択」が足りません。

こちらが側が善意(ボランティア)で、

その人のことを思ってして差し上げると

「ありがとう、じゃあこれも、これも!」と

どんどん図に乗って、ますます頼って来る人間が存在します。

そんな所謂「薄情者」には、

ガツン☆と雷落としてやらねば。。。と考えております。

相手が年上だからとか、男性だからとか、そんなことは関係なしです。

「ダメなものはダメ」と、ますます貫き通さなければならないと、

ある種の『正義感』というものが、メラメラと沸き出て来ました☆

今年の(今後も?)私の目標(テーマ)は、

「明歴々露堂々」(めいれきれき ろどうどう)」です。

一点も覆い隠すことなく、正々堂々と生きるです。

自分が悪いことをしたのであれば、即行で謝罪しますし、

正しければ、ありとあらゆる手段・人・知識情報・時間を使って

とことんそれを貫いて行きます。

・・・四国遍路行に覚醒め8年。

奈良・三輪山や大峯山(奈良・吉野)にご縁頂いて6年。

こんなかんじでおかげさまで、

霊峰のお力を頂き

(っているか、もしかしたら、霊峰によって、

元々ある自分の力が引き出されて来たのかも?

求める私の心と、与える霊峰の心が合致しているから、

こんな感じで、エネルギーの送受信が出来るのかも?)

曲がりなりにも、だんだんとぶれない

「漬物石」には成って参りましたが、

人間はいい意味でも「欲」があり、

もっとぶれない、強靭(強くてしなやか。陰陽を包括する)な

私でありたいと切望しています。

そのためにも、もっと精進しなければなりません。

ちゃんとやればやる程、まだまだな自分が見える。。。

無限の無知な自分が観える反面、

無限の可能性を秘めた、自分自身も観えています。

ゴールの見えない、遥か彼方の人生遍路道。

ゴールが見えない・分からないからこそ、

踏ん張れる・頑張れるのだと思います。

そうやって、前向きに捉えることで、

心が前を向き、そして人生も前を向いて

歩いてゆけるのではないでしょうか。

・・・最後に、ある本にこのようなことが書かれていました。

お釈迦様いわく、自分本位を捨てて

『八つの正しい道』に生きましょう。

①正しく見(正見)、②正しく思い(正思)、

③正しく語り(正語)、④正しく行い(正業)、

⑤正しく暮らし(正命)、⑥正しく努力し(正精進)、

⑦正しい理想を持ち(正念)、そして

⑧正しい落ち着きを得るべし(正定)。

シンプルですが、とても良いお言葉だと感じました。

肝に銘じたいと思います(%笑う女%)(%王冠%)