吉野山・金峯山寺の元管領の

故・五條順教師の本

『修験道に学ぶ〜在家仏教のこころ〜』を

洞川温泉でこもっておりました時に

じっくり読み直しておりました。

「心ばえ」というページがありました。

一日三回、蔵王堂では梵鐘が鳴るそうです。

その梵鐘はお寺の中だけでなく、

今も村中に響き渡っています。

昔、ある老僧が鐘の音を聞き

「いま、鐘をついている小僧は、将来名僧になるであろう」と

見事にいい当てたとのことです。

(その小僧さんは明治時代を代表する傑僧・権田雷斧上人なんだそうです)

同じ鐘の音でも、達人が聞けば、

つく人の品性なり、人となり、心ざまが判るのだそうです。

その小僧さんが、老師から

「あなたは、どのような気持ちで鐘をついていましたか?」と聞かれ、

「亡くなった母親に回向する気持ちでついていました」と

お答えになられたそうです。

その敬虔な気持ちが鐘の音になってあらわれたのです。。。

やはり、後世に名を残す人は、

心底の『心ばえ』が違うのだそうです。

私たち人間は、何かにつけて、この見事な心ばえに

習わなければならない。。。それは要するに、

心のチリを払って払って払い抜くということである。

鐘をつくことも、掃除も、作務も、托鉢も、読経も

全てそのチリを払う糧でなければならない。

・・・深い、深いですね。

「払って払って払い抜く」というお言葉が

何だか、ぐっと来ました。

日々、自分なりに払う努力はしておりますが、

全てを『払い抜く』という心意気まではありませんでした。

心のどこかで、

「人間はみな煩悩のカタマリやし、

払っても、払っても、ふつふつ煩悩は沸いてくるし〜」・・・って

半ば諦めモードがあり、心の隙があったように思います。

そして思ったことは、

「たかが鐘つき、されど鐘つき」

です。

ほんの些細な雑務であっても、

そこからそれを行う人間の『本質』って

判る人には、透けて観えるねんなぁ・・・と

改めて襟を正した次第です。

それに凡事徹底、また小さいことから

コツコツしなければ・出来なければ

大きな物事は、結実成就させられないと思われます。

そこまで分かって、思い至りますと、

自分はまだまだ中途半端で隙だらけやと、

反省しきりです。。。(懺悔っ ー0ー;)★