以前ブログに書こうと思っていたことを思い出し、
せっせと書いています(笑)。
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・・・四国遍路38番・金剛福寺
(高知県西南部・足摺岬にある札所)から、
宿毛市にある39番・延光寺まで行く遍路道は
何ルートかあります。
「打戻り」という、37番・岩本寺から
やって来た道(足摺岬東側の道)を
同じ道を、途中まで戻って39番さんに行くのがイヤな方などは、
20キロ程遠くなりますが、
来た道を一切通らずに、足摺岬の西側の国道321号線を通り、
月山神社(※江戸時代まで神仏習合のお寺で、弘法大師空海とも縁深く、
今でも番外札所としてお遍路さんがお参りされているそうです)
を経て、「大月へんろ道」を通って、39番さんまで行きます。
その「大月へんろ道」の中に
歩き遍路さんしか通れない山道があり
その道には、右上写真のようなもの・・・
地元大月小学校の子どもたちによる、
お遍路さんへの励ましの言葉を描いた木札が
いっぱい付けられています。
その小学校では毎年小学3年生になった子どもたちが、
総合学習の授業の中で「遍路授業」というものを受けており、
その中で、歩きお遍路さんのために、
心を込めてこの木札を作っているのだそうです。
時空を超えて、いろんな人と人を繋ぐ一本の遍路道。
改めてその素晴らしさを感じました。
その授業の一環の動画です↓
https://www.youtube.com/watch?v=0RkOIj-JFcU
こんな活動(授業)なんですね↓
http://arukihenro.shikisokuzekuu.net/kiroku001116.html
http://arukihenro.shikisokuzekuu.net/info003.html
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上記動画を見た後、その動画に登場する女性レポーターの
違う動画を見ていますと、
そのおねえさんが大月小学校の子どもたちに
「どうしてお遍路さんは、しんどいのに途中で諦めないのですか?」
という質問を受けたそうです。
そのおねえさんの答えは、「諦めないと、強くなれるから」ということでした。
そして、いろんなもののカタチが見えて来るからなんだそうです。
なるほどな。。。
きっとそのもののカタチとは、『真理・真実』というたぐいのもの
なんだと感じました。
加えて、私も考えてみました・・・
『どうして私は諦めないのか?』
それは、「生きていることを諦めないから」なんだと思います。
お遍路=生きることなんだと思います。
生きることの中にお遍路があり、そして
お遍路の中に生きることがあるから ・・・なんだと思います。
人生を諦めてしまうと、希望を失い絶望し
もぬけの殻状態で細々と生きるか、自殺するしかありません。
何かのご縁でせっかくこの世に生まれて来たのだから、
最期まで諦めないという心意気が、
この遍路の中にも確実に投影されているのだと思います。
諦めない歩きお遍路さんを間近で見てもらい、
子どもたちも諦めない・・・希望を持ち続けられる
大人になって欲しいなと願っています。
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あと、いろんな人によくされる質問が
「どうして何回も、お遍路を周るのですか?」というものです。
これも、私は
「生きているから」 と答えています。
もう一度書きますが、私にとって
お遍路をすること=生きることなんだと思っています。
「人生即遍路」です。
毎日太陽が登って沈んで真っ暗になってまた太陽が昇るように
お遍路さんは何回も同じお遍路行に勤しむ訳です。
それが至って自然な流れであり、誰からも強制されている訳ではありません。
それがお遍路さん(行者)の宿命のようなものです。
ある意味、自分が決めているようで、
実は「誰か・何か」に決められているようです。
ほんと、「縁」というものは、
自分で引き寄せるものでもあるし、
また自分(人間)の思惟を超えたところにある
絶大なる力によっても、もたらされているようで・・・
だから我々日本人は先祖代々、
神仏に祈りを捧げるという、「信仰」を重ねて来たのだと思います。
・・・縁があり、また縁が深いのだから、どうしようもありません。
四国遍路(山の修行)は止められません(笑)。
「なんでこんな人と結婚してしまったんやろう!」と
アタマでは嘆きまくっても、
何故かココロはそれを求め続けていて、ずっと一緒に居続けている
パートナーのような感じです(更に、笑)。
ほんと、人でも境遇でも・・・全ての出会い(出合い)は
『縁(出会い)』と『相性(出合い)』で決まるのだと思っています。
『縁(出会い)』は会う・会わない
『相性(出合い)』は、合う・合わない
という感じでしょうか。。。?
もしも縁あって出会っても、愛称が合わなければ、
結ばれ続けられないでしょう。
私にとってお遍路行とは縁があって、
しかも相性が抜群なんでしょうね(^^;)。
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・・・はたから見れば、いつも同じ遍路(修行)風景に見えても、
回数・月日を重ねるごとに『何か』が確実に変わって来ています。
それは修行している本人ですら気づいていないかも知れませんが。。。
ほんと、歩き遍路なんて、
このリニアの時代に、なんと時代に逆行し、アナログ的で、
無駄ばかりのアホなやり方なんかな〜って
歩いている最中は何十回も・・・
何百回も思いました(っていうか今も思います)。
だけど、実際自分が歩いてみて・・・歩き続けていて、
「やっぱり歩き遍路が一番いい」と、ひしひしと感じています。
私は両方させて頂きましたが、
車(団体)遍路と歩き(一人)遍路と比べてみまして
歩き遍路でめちゃくちゃ苦労した分、
いろんな出会いや気づき、そして達成感が違うのです。
「ああ、私って生きている・・・生かされているんやな」という
湧き起こる報恩感謝の念が全然違います。
世の中(娑婆の世界)には、様々な「快感」というものがありますが、
この世で最も強烈で最も幸福感に満たされる快感は、
「生きている」という事実をちゃんとかみしめることの出来た瞬間・・・
『生命の歓喜』なのではないでしょうか?
それが何故かと申しますと、
命あっての、生きているからこその、人生だからです。
生きているという事実・幸福が全ての人生のベースとなり、
その上に、ありとあらゆる人間の快楽や快感、幸福が
もたらされるのではないでしょうか?
大事故や大きな病気の後、それから逃れられた・回復した時の歓喜、
赤ちゃんが生まれた時の歓喜・・・
そんな生命存続の危機や生命誕生の瞬間に立ち会えた時の歓喜が
最も高く、そして深い幸福感を得られるのではないでしょうか。
そんな意味で、一人で厳しい歩き遍路をする人たちは、
あらゆる生命存続の危機が訪れる可能性が高く・・・
(体調不良、崖から転落、動物などの襲撃など)
と同時に、この世で味わえる最も最強最大の幸福感を
味わえる可能性も高いということにもなります。
私はこの『生命の歓喜』を遍路修行で
味わってしまったものですから、
病みつきになっているのかも知れません(笑)。
それに、人間の一つの本能としまして、
『真理&真実を知りたい・極めたい・悟りたいという本能』
があるような気がしています。
本能とは、人間を動物へと陥れる悪い方向へと導く本能もあれば、
人間を所謂『カミの領域』へと誘う本能もあるかと思います。
地球には重力があるように、
この娑婆の世界では、堕ちる(徳よりも罪を作る)人間の方が多いようです。
それはある意味において「人間の性」というものであり、
仕方がないのかなとも思います。
しかしながら私は生まれて来た限りは、堕ちるのではなく、
少しでも上がって、逝きたいのです。
重力がある環境の中で、上にジャンプするのは結構根性もいるし、
肚もどっしり座っていなければならないし、
無知でもアカンし、盲目でもアカンし、結構神経使います(笑)。
つい気を抜くと、周りから、また自分の中から
かもし出される「重力」に流されて下がってきて
ふらふら。。。大海原に浮かぶ海藻のようになって来ます。
そんな意味でも、
(ご縁あって先達にもならせて頂きましたし)
今後も、遍路修行でも己を磨き高めてゆきたいと思います(%笑う女%)(%晴れ%)