「雲間の青空」

毎度です〜(%笑う女%)(%星%)

ようやく春らしくなりましたね。

だけど、先日は数日間、雨ばっかり降ってマシタ。

毎日毎日・・・

雨時々曇りの日が続くと、

そんな毎日が「当たり前」になり、

だんだんと雨や雲の上にある

『青空』の存在を忘れてゆくようです。

その有様はあたかも希望(成長や進化)を忘れ、

惰性と怠慢に生きる、

『動物型ヒト』の生き方そのものであります。

「今の世の中、どうせ頑張っても報われない」と、

自己怠慢を社会(誰か)のせいにして責任転換をし、

自らを正当化して、

今の…そして自分だけの快楽・幸福だけを

貪り続けるヒトであります。

その生き様は、駅のホームで

誰かがこぼした食い物を探し続け…

更に時期が来たら交尾をして子どもを作り、

子や孫もずーと進化ゼロ(同じ習慣や生き方)で、

さ迷い続けているという・・・そんなハトと同じであり、

そのような人間こそが『人間的敗者』なのではないでしょうか。

従って果敢に挑戦し、失敗する人間は敗者ではなく、

『勇敢なチャレンジャー』なのでしょう。

・・・数日ぶりに雲間から青空が見えると

「青空(晴れの日)って有難いな…」と

しみじみ感じる次第ですが、

またしばらく晴れの日が続きますと、

晴れの日が「当たり前」に感じてゆき、

やがてまた雨が降って来ますと「バカヤロウ」とか

「なんで出かける日に降るねん」など

不平不満を言う・思う訳です。

ほんとこの『当たり前』という感情・・・

報恩感謝の気持ちの欠如から、

人間の苦難や凋落は起こり始めるのだと思われます。

言動だけでなく、

心から報恩感謝の念を忘れないようにする、

その最大の方法は

『死にかける〜死を身近に感じる〜』

ことのように思います。

人間最大の苦難は『死』であり、

「そもそも論」としまして、

命というものがないと、いろいろな物を持っていても、

全て無意味・無用の長物になるからです。

命があるからこそ人生があり、

人生があるからこそ、喜怒哀楽の感情を味わえ、

様々な人に出会え、様々な物を得る幸せ(幸福感)を

感じることが出来る訳です。

だけど、自分が事故や病気で死にかけたり、

身内や仲の良い人が次々死んでしまったりしたら

めちゃくちゃ嫌ですので、

だから私は時々、白装束を来て、四国へ歩き遍路すべく、

心身を追い詰める修業をしに行き、

命をかける体験をし続けている次第です。

それに私は『真の悟り』とは、

「成仏する(死んだ)瞬間」に得られるもののような気が、

何となくしています。

(死んだことがないので、実際はどうかは分かりません・笑)

『成仏』とは、死んだ瞬間に成る状態を指す言葉ですが、

弘法大師空海は『即身成仏(そくしんじょうぶつ)』という、

生きている間に真の悟りを得る域に達するのが、

人間にとって最高であると説かれました。

別に人里離れた霊峰でなくてもいいかと思いますが、

日々「即身成仏したい・真の悟り(幸福)を得たい」と

本気で思い願いながら、

死ぬような過酷な人生修業を積んでおりましたら、

かなりその域には近づけるのではないでしょうか。

(※その過酷な修行で死んでしまったら本末転倒ですので、

その匙加減は必要です)

私の場合、あまり人が多い・ごちゃごちゃした場所は雑念が多く

(難波なんかは最悪で、余程の理由がない限り行きません)嫌いで、

正常・清浄な場所が好きなので、

今後も美しい霊峰や行場で修業してゆきたいです。

修業する場所や項目(中身)が違っても、

それが正しい修業(実践)であれば、ゴール(悟り)は同じですので、

自分自身に合う修業方法(人生の歩み方)を選択すべきだと思いますし、

あれもこれも・・・どれもと、全部が中途半端にするのではなく、

1〜数個程に『取捨選択』をし、

それらの修行項目に特化・集中した方が、

早くゴールに近くなると思われます。

・・・私は本格的に畑をやりだしてから、

雨の日を嬉しく、また必要だと感じるようになりました。

それが何故かと申しますと、

雨の日がないと、

わざわざ『水やり』をしに行かなければならないからです。

それに雨の日が続いた時は、作物たちは特に元気です。

それに風の日も作物(食物)には大切のようです。

梅やさくらんぼのような、花を咲かせて授粉して、

身をつけるためには、ハチ等の生き物だけでなく、

比較的強い風が必要のようです。

そして稲も強い風が必要で、

ちょうど台風シーズンに授粉してお米が実るそうです。

我々人間が不必要だと歎いている『春の嵐』や『台風』も、

こんなカタチで我々人間に災いと同時に『恵み』も

たくさんもたらして下さっているようです。

このような感じで、どんな事象であれ陰陽・・・

恵みと災い、メリットとデメリットがあり、

人間にとって都合の良いものだけを享受するのではなく、

両方をうまく受け入れる必要があるようです。

・・・以上のような天気のお話しは、

人間の心にも、同じことが言えるような気がいたします。

人間の心は、自分では操縦不可能のところがあり、

天気のように不規則にコロコロ変わってゆきます。

晴れの日もあれば、雲・雨・霧・雪、風の日もあります。

天気がそうであるように、

「毎日晴れの日がいい」と願っていても、

大自然は人間の想い通りにはなりません。

人間の心も、心の持ち主である自分の意思や願望通りに、

毎日晴れの日に出来ないものなんだと思います。

毎日生きていれば喜怒哀楽いろいろありますからね。

『空の天気のように、自らの心は自分の思い通りにならない』

ということが真理・真実なんだと思います。

しかしながら、例え空の天気が雨であっても、

自分の気持ちは晴々することが出来るように、

自分の境遇・現状が第三者から見れば明らかに『雨』であっても、

希望を持って諦めず、正しい努力していれば

己の心の天気は『ずっと晴天』で、

そして時を待てば、いつか必ず雲間から光が射し、

本当に天気が晴れて(事態が好転して)来ます。

要は『天気』というような、大自然の絶対的な境遇は変えられませんが、

その境遇から得られる気分や感情、気づき・知識経験は

自分の心次第で、変えることが出来るということです。

・・・私の推測ですが、

天気というような、

自己努力ではどうしようもないことに

不平不満をまくし立てる人は、

実は自分が陰に陽に招いている哀れな境遇にも不平不満を罵り、

100%の他者への責任転換を行い、自己反省と改善が無く、

自ら率先してドツボにハマッテいる人間のような気がいたします。

人生は全て『因果応報』であり、

自分や自分と深く関係する人(親祖先、会社の上司など)からの因縁で

全てが陰に陽に決まって来ます。

この『因果応報の法則』をだんだんと掴み始めて来てからは、

恐ろしいくて、悪いことが出来なくなりました(笑)。

ほんと、人は見てなくても、天と自分は観ており・・・

人は騙せても、『天』と自分は騙せません。

自ら(その家系)作った『罪』は、自ら(その家系)が償うように、

天は絶妙なタイミング(最も痛手を追う時)で帳尻を合わせに来るようです。

・・・最後に、私の勝手なる壮大な推論ですが、

先程私は

「自分の心は、自分の意思で操縦出来ない部分がある」

というようなことを書かせて頂きました。

本来、自分のもの(心)やのに、

自分自身で100%操縦やコントロール出来ないのは何故やろう?

・・・例えば、心穏やかに静かな喫茶店で

コーヒー片手に読書してますと、

そこに八尾のおばちゃんの集団が入って来て、

隣でぎゃーぎゃー会話し始める。

私は「おばちゃんら無視しよ。心穏やかに過ごすぞ。」

と思ってはみても、だんだん腹立って来て・・・

「このオバハンら、ジャガマシイ〜!」って、

怒り狂いながら喫茶店を後にする・・・など(笑)。

こんな感じで、人間の心は自分自身のものでありながら、

周りの人や環境に影響されまくるのは何故か?

・・・それは、人間の心とは、人間の身体のように

完全に自分だけのもの・他者から独立・自立した存在ではなく、

自分以外の他人、環境、境遇・・・森羅万象(全て)・・・繋がっている・・・

いや、『全てが一つになっている』というものなのかと思います。

人間の心(魂というものの含む)は、

個々に(バラバラに)独立して存在するのではなく、

目には見えない宇宙という無限大に存在する一つの大きな場所の中に

個々の人間の心が存在していて、

その一つの大きな場所の中で個々の心(魂)がぶつかったり、

分かり合ったり・・・いろんなカタチでくっついたり離れたり

しているのではないか?・・・ということです。

みんな同じ、一つの場所に共存しているからこそ、

互いにすぐ共鳴や影響をしやすいのかなと感じました。

ま、人間の心ですら目には見えず、

どこにあるかが分かりませんので、

本当のところ(真実)は分かりません(笑)。

・・・人間一人一人の中にも無限の宇宙(可能性)があり、

空間にも無限の宇宙があり・・・まだまだ人間が分からないことが多く、

あれこれ推察するのは、知的好奇心をくすぐられ、

楽しいもんですヮ(%笑う女%)(%星%)